(モバイルでは端末を横長にしてご覧ください)
(iPhoneなどで端末を横長にして画面の左側にブックマークなどの表示が出る場合は
画面最上部のアドレスバーの左側の青くなっているブック(本)のマークのアイコンをクリックすると消えます)
イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
好きで、始めたはずでした
その美しさに惹かれ続けて、今も弾き、今も学んでいる。
多くの方が、そうではないでしょうか。
なかには、音楽大学に進学された方もいるでしょう。
指導者(ヴァイオリンの先生)となった方も、いらっしゃると思います。
耳を傾けてみてください。
あなたが今、奏でているその音は、
あなたが惹かれた、あの響きの美しさですか。
あなたが心を奪われた、あの音色の美しさですか。
必ずしも、そうではないのではないでしょうか。
どこかに「まあ、こんなものか」という諦めが、
ありはしないでしょうか。
あるいは、最初に心をときめかせた、あの感興そのものを、
忘れかけてはいないでしょうか。
その隔たりは、毫釐から始まった
あなたが惹かれた響きと、今あなたが奏でている音。
その間には、隔たりがあります。
その隔たりは、昨日今日、生まれたものではありません。
何年弾いても、埋まりませんでした。
だからこそ、あの諦めがあるのではないでしょうか。
埋まらない、その隔たりは、千里です。
しかしその隔たりは、千里の幅で始まったのではありません。
毫釐(ごうり)の幅で、始まったのです。
どちらも、目には見えないほどの、わずかな幅を表します。
その毫釐とは、何でしょうか。
一音いちおんの中に、その音が最も豊かに鳴りきる場所がある。
その場所を、見極めて奏でたか。見極めずに奏でたか。
その差です。
『一点』を奏でたか否か、その一音の中での差は、毫釐にすぎません。
しかしその毫釐が、一音ごとに積み重なっていきます。
そして年月を経て、あなたが惹かれた響きとの間に、
千里の隔たりを生むのです。
あなたが今、感じている隔たり。
それは、才能でも、練習の不足でもありません。
毫釐の集積なのです。
では、その『一点』とは、何なのでしょうか。
『一点』とは、何か
ヴァイオリンの響きの中には、その音が最も豊かに成立する
『一点』があります。
『一点』とは、音を区切る概念でも、細切れにする奏法でもありません。
倍音が豊かに鳴りきる、美しい響きの成立点です。
それは特定の音だけに存在するものではなく、
『一点』は、気分や精神論ではありません。
それは主観ではなく、響きそのものに存在する物理的な事実です。
『一点』を射抜いた響きは持続音として次の音へと流れを生み、
音楽に推進力を与えます。
外した音は濁り、その流れを失います。
ここで、誤解を解いておかなければなりません。
『一点』とは、時間の上の一点ではありません。
その音が、最も豊かに鳴りきる、響きの成立点です。
鳴りきった響きだけが、次の音へと流れていくのです。
力で貫くのでもありません。
力めば、楽器は鳴りません。
『一点』を射抜いた響きの中で、ヴァイオリンは自然に、豊かに鳴りきります。
正しい音程とは、楽器全体が最も豊かに鳴りきった、その響きのことだからです。
乏しい音や濁りのある音であれば、それはヴァイオリン本来の音程ではないのです。
ヴァイオリンの真に美しい音色は、『一点』の響きの中にこそあるのです。
中間はありません。
あなたが惹かれた、あの響きの美しさ。
あなたが心を奪われた、あの音色の美しさ。
耳から耳へ受け継がれてきた響き
アウアーからシフェルブラットへ、シフェルブラットから鷲見四郎先生へ。
世界的名教師の系譜の中で、耳から耳へと継承されてきた響きです。
その指導を傍らで見続け、歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生です。
私はその両先生に師事し、特に四郎先生のもとでは
13年にわたって研鑽を積みました。
その四郎先生こそ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を演奏して、
第2回も四郎先生が優勝されたため、優勝者は再度参加できない
規定が設けられたほどでした。
冒頭の「シ」ただ一音の『一点』を射抜くためだけでも、数時間に及ぶものでした。
その音において射抜くべき『一点』は、一つではありませんでした。
あの冒頭の「シ」には、5種類ありました。
そしてその5種類は、任意に選べるものではありませんでした。
私がその後に師事した、二十世紀を代表する巨匠――
その取り組みもまた、この『一点』に貫かれていました。
『一点』は、一人の教師の流儀ではありません。
物理現象に、流儀はないのです。
「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。
しかし「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです。
『一点』は、独りでは見極められません
ここまでお読みになって、こう思われたかもしれません。
その『一点』が、聴き取れない、と。
そのとおりです。
『一点』は、知らなければ見極められません。
習わなければ、わかりません。
それは、あなたの耳が悪いからではありません。
そこに『一点』があるということを、誰も教えられなかったからです。
ここで、多くの方が途方に暮れてしまうでしょう。
見極められないものを、どう求めればよいのか。
聴き取れないものを、どう外さずに奏でればよいのか。
しかし、耳を壊している行為は、誰にでもわかります
しかし、耳を壊す行為は、違います。
毫釐を積み重ねさせているもの。
多くの者が行い、多くの者が正しいと信じている、三つの行為です。
次の三つです。
二つ、エチュードを、端から端まで弾き通す・弾き通させる。
三つ、音程は後から徐々に直せばよいとする。
この三つを、私は「三戒」と呼びます。
これらが、あなたの耳を壊すのです。
ではなぜ、この三つが耳を壊すのか。
一つずつ、述べます。
周波数です。
弦が、一秒間に何回振動したか。その数値だけです。
しかし、鳴っているのは、弦だけではありません。
胴も、裏板も、その中の空気も、共に鳴ります。
チューナーの数値は、そのどれも示してはいません。
では、『一点』とは何であったか。
楽器全体が共鳴し、倍音が豊かに鳴りきる、その響きの成立点です。
周波数は、それを示しません。
その音が次の音へと流れる力を持っているか。
チューナーは、そのいずれについても、何も語りません。
それでも、チューナーは、合っていると示します。
針を真ん中で見ようとも、高低の目盛を読もうとも、
示されるのは、数値の一致です。
そのとき、あなたは何を確かめたのでしょうか。
これを繰り返すと、何が起こるでしょうか。
耳が、『一点』を捉えられるようになる道が、閉ざされていきます。
もともと捉えていたものを、失うのではありません。
まだ一度も捉えていないものを、これから捉える、
その可能性が、断たれていくのです。
これが、耳の破壊です。
ヴァイオリンが豊かに響く『一点』を、聴き分けられなくなることです。
数値が合えば正しいとされ、鳴りきっているかどうかは、問われなくなります。
問われないものを、耳は聴きません。
ピアノの音に合わせても、
あなたのヴァイオリンが鳴りきったかどうかは、わかりません。
弾き通しは、濁りを聴き流させる
エチュードを、端から端まで、何巡も弾き通す。
そのとき、一音いちおんは、通過していきます。
通過していくだけです。
次の音が来ます。また次の音が来ます。
いま鳴ったその音が、鳴りきったのか、濁ったのか。
それを聴き、確かめる時間は、そこにはありません。
『一点』は、鳴った瞬間に聴かなければ、わかりません。
鳴りきったか、濁ったか。
その一音において、確かめるほかないのです。
弾き通しは、それをさせません。
こうして、濁ったまま鳴った音が、
何十回も、何百回も、確かめられずに耳を通ります。
その積み重ねによって、鳴りきった響きを、耳は聴き取れなくなっていきます。
これが、耳の破壊です。
鳴りきった響きを一度も確かめずに、何を基準に弾くというのでしょうか。
響きに基準を持たない耳は、濁りを濁りと知りません。
いわば「薬」です。
『一点』を知る指導者という主治医が、学習者という患者の症状を正確に診断し、
ある患者に必要な薬が、別の患者には毒となることも、当然あります。
それは薬棚にある薬を、片っ端から全部飲ませるようなものです。
そのようなことは医学ではあり得ません。
ヴァイオリンの指導においても、決してあってはならないことです。
処方するには、診断が要ります。診断には、耳が要ります。
そして三戒によって壊されている指導者の耳には、それがわからないのです。
わからなければ、選べない。
選べなければ、全部やらせるほかありません。
ここで、はっきりと申し上げておきます。
一音いちおんに『一点』を射抜き、それを紡ぎ続けることが、「演奏」です。
何巡弾き終えたか、何曲弾き熟(こな)せたか。
それは作業の量であって、演奏ではありません。
ヴァイオリンで奏でる総ての音において、『一点』を射抜くことが求められます。
スケールとは、指を並べる練習ではありません。
曲もまた、通すためにあるのではありません。
「後から直す」とは、先に耳を壊せということ
まず弾き通してから直せばよい、という考え方があります。
これは、直すのが遅い、という話ではありません。
そもそも、何に向かって直していくというのでしょうか。
徐々に直すという考えは、到達すべき場所を知らないから生まれます。
『一点』を射抜いているか、外しているか。
中間はありません。
徐々に近づくという発想そのものが、『一点』を知らない証です。
直すまでの間も、その音は、鳴り続けています。
外したまま、何十回も、何百回も。
その一音いちおんが、耳を壊していきます。
直そうとしたときには、
三つに共通するもの
この三つは、別々の行為に見えます。
しかし、その捉え方は、いずれも同じです。
数値が合っているか。指が覚えた場所か。最後まで弾き通せたか。
ヴァイオリンは、そこに一度も答えを出していません。
楽器に答えを出させず、強引に、自らに利する判断で、正しさを決めてしまう。
毫釐千里。
三戒が生むのは、毫釐です。
その毫釐が、やがて千里となるのです。
最も長く弾いた者が、最も深く壊れている
三戒に触れて奏でてしまうと、
その一音いちおんごとに、響きを聴く耳へと育つ道は、閉ざされていきます。
そして、閉ざされてしまった道は、そのままでは開くことはありません。
ですから、長く弾いた者ほど、『一点』を射抜けなくなっていきます。
より長く弾いてきた者ほど、より深く、
初心者は、まだ耳を壊されていません。
むしろ、音大生が、プロ奏者が、そして指導者(ヴァイオリンの先生)こそが、
最も深く耳を壊されているのです。
しかし、耳が壊れた者ほど、耳が壊れているとは思っていません。
その壊れた耳は、些末な変化に翻弄されます。
圧力のわずかな違い、指の角度のぶれ、音の揺らぎ。
楽器を弄り回しながらそれを捉えることを、聴き分ける力だと、誤解するのです。
そればかりか、数値の合った音程は、褒められます。
ぶれず、いつも同じ場所で弾ける――人は、それを褒めるのです。
しかし、その同じ場所で、ヴァイオリンが鳴りきっているとは限りません。
こうして、三戒は広まりました。
多くの者がそう教え、多くの者がそう復習(さら)っています。
しかし、多数であることは、正しさの証明ではありません。
ヴァイオリンは、多数決に従いません。
鳴りきるか、濁るか。
それだけを、一音いちおんごとに返してきます。
ここで、冒頭のあの諦めに戻ります。
「まあ、こんなものか」。
この言葉は、多くの場合、謙虚さとして口にされます。
身の程を知った、大人の分別として。
しかし、そうではありません。
あなたの耳は、あの日惹かれた響きを、確かに知っていました。
あの日、あなたの耳は、正しかったのです。
その耳が、『一点』を聴き分ける耳へと育つ道が、
一音いちおんごとに閉ざされてきました。
それを埋める術(すべ)を、誰も示してはくれなかった。
埋まらないまま、年月だけが積み重なった。
その隔たりを、埋まらないものとして受け入れた言葉。
それが、「まあ、こんなものか」です。
感興が薄れたのではありません。
その感興を、自らの楽器から鳴らす耳が、育たないままだったのです。
そして、この言葉が口をついて出たとき、
毫釐は、すでに千里となっています。
三戒に、近づいてはなりません
ですから、三戒には、決して近づいてはなりません。
この三つは、ヴァイオリンを始めた日から生涯、変わりません。
戒めるべきは、同じ三つです。
なお、三つのうち一つだけならよい、ということはありません。
チューナーを使うことだけは行う。
弾き通しだけは行う。
後から直すことだけは行う。
そのいずれか一つでも、耳は壊れていきます。
一つ断って、二つ残すのでは、破壊は止まりません。
二つ断って、一つ残しても、破壊は止まりません。
三つ総てを、断たなければならないのです。
『一点』は、独りでは見極められません。
しかし、三戒を断つことは、今日からできます。
では、勘と経験で取ればよいのか
三戒を断ちました。
では、何を頼りに、音程を取ればよいのでしょうか。
勘と経験で取ればよい、という答えがあります。
長く弾いてきたのだから、身体が覚えているはずだ、と。
「勘と経験」と呼ばれるものは、次の二つです。
『一点』を射抜いた結果ではありません。
三戒は、耳を壊します。
勘と経験では、耳が育ちません。
では、道はないのでしょうか。
道は、一つです。
それだけです。
ここまでお読みになったあなたは、『一点』が何であるかを知りました。
しかし、それを捉える耳は、まだ得られていません。
耳は、耳からしか、育たない
まず、消えたのは、『一点』ではありません。
今も、その音の中に、在り続けています。
閉ざされたのは、それを聴き分ける耳へと育つ道なのです。
あなたが惹かれた、あの響き。
それは今も、あなたの楽器の中に在ります。
あなたの手の中で、射抜かれるのを待っています。
その耳は、得られます。
けれども、独りでは、得られません。
なぜでしょうか。
『一点』は、文字にも録音にも動画にも残せません。
「よく聴きなさい」と言われても、
何を聴くのかがわからなければ、聴きようがありません。
聴き分ける耳は、聴き分ける耳によってしか育ちません。
その耳を持つ者の傍らで、一音を聴き、
また射抜く。
その繰り返しの中でしか、耳は開いていきません。
壊れた耳は、蘇ります
では、その耳が蘇るとき、何が起きるのでしょうか。
まず、音程がよくなります。
しかし、それだけではありません。
あらゆる技術が、『一点』という一つの根拠へと、収束していくのです。
ポジション移動が決まらないのも、ビブラートが濁るのも、音程です。
別々の問題として抱え続けるほかないのです。
順序は、逆です。
その響きを求め続けるとき、身体が、本来の動きを、取り戻すのです。
右手の運弓も、圧力も、弓と駒との距離も。
その総てが、『一点』を射抜くために働きます。
そして、音楽表現に至ります。
濁りのない響きだけが、次の音へと流れ、フレーズを結び、音楽となるからです。
そこに鳴っているのは、あなたが惹かれた、あの響きの美しさです。
技術が向上した結果として、ではありません。
『一点』を射抜いた響きそのものが、あなたが惹かれた、あの美しさなのです。
これまでは、何を直せばよいのかがわからないまま、
ただ回数を重ねるほかありませんでした。
耳が蘇れば、その回数の意味が変わります。
どの音が『一点』を外しているのかが、自ら聴こえるようになります。
復習うほどに耳が壊れる側から、
復習うほどに耳が育つ側へと、回るのです。
生徒の耳を破壊する側から、生徒の耳を育てる側へと、回ります。
どの音が外れているのかが聴こえるからこそ、
その生徒に処方すべき課題を、選ぶことができます。
私の教室に学びに来られた方は、ほぼ100%、例外なく、驚かれます。
千里は、一音から戻る
長く弾いたほど、深く壊れている。
しかしそれは、長く弾いてきたことが無駄であったという意味ではありません。
むしろ、逆です。
あなたが積み上げてきた技術は、失われてはいません。
ただ、その総ては、根拠を欠いたままだったのです。
『一点』という根拠を得たとき、その積み上げは、初めて機能し始めます。
毫釐が千里となったのなら、千里を戻るにも、また同じ年月が要るのでしょうか。
そうではありません。
隔たりが千里となったのは、毫釐を毫釐のまま、幾度も見送り続けたからです。
千里とは、距離ではありません。
ですから、射抜いた一音から、その隔たりは消えていきます。
一音を射抜けば、その一音において、隔たりは無くなるのです。
あなたが惹かれた、あの響き。
それは、他人の演奏の中にありました。
だからこそ、あなたは追いかけてきたのです。
耳が蘇るとき、その響きは、あなた自身の楽器から鳴り始めます。
憧れる側から、奏でる側へ。
「まあ、こんなものか」は、そこで消えます。
当教室には、趣味で学ばれる方から、音大生、プロ奏者、
指導者(ヴァイオリンの先生)まで通われています。
(詳しくは「初心者から音大生・演奏者まで」のページをご覧ください)
指導者が他の教室に習いに行くことは、通常ありません。
それでも来るのは、ここでしか得られないものがあるからです。
射抜くべき『一点』を、あなたの耳が、初めて知る、その時を。
決断は、今です。
東京都狛江市にある美しい音色・正しい音程・伝統の奏法重視の
「イワモト ヴァイオリン教室」
住所(狛江教室):〒201-0003 東京都狛江市和泉本町2-31-4メイプルビル301
営業時間 :10:30~23:30(日・月・水・木・土)
各色のマークをクリックすると、関連リンクが表示されます。
(下掲のボックスでブログ(サイト)内の検索ができます)
このブログの文章・画像・その他のコンテンツを含む一切の転載をお断りいたします
カテゴリ: 究極のヴァイオリン奏法
