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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
ヴァイオリンの学習・練習・研鑽において、弾くべき曲は無数にあります。
そこには、達成感があります。
さらには、進捗も感じられます。
それは、演奏でしょうか。
そこに、音楽はあるでしょうか。
それは、作業です。
それを解く鍵が、あなたの弾いているヴァイオリンの音にあります。
どちらも「そうおん」と読みます。
しかし、この二つは、まるで違うものです。
弦を押さえ、弓を動かせば、音は出ます。
それは、操音です。
誰でも、音を出すことはできます。
それが、奏音です。
その奏音は、どこから生まれるのか。
『一点』とは
ヴァイオリンという楽器の個体差を超えて全体が共鳴し、倍音が豊かに鳴りきる、
『一点』は、開放弦と同名音だけにあるのではありません。
ヴァイオリンで奏でるべき総ての音の中に、普遍的に存在します。
『一点』は、気分や精神論ではありません。
それは主観ではなく、響きそのものに存在する物理的な事実です。
しかし、その響きは、耳でしか捉えられません。
チューナーは、数値しか示せないため、『一点』はわかりません。
ピアノは、ヴァイオリンの響きではないため、『一点』はわかりません。
録音は、技術の限界ゆえに、『一点』はわかりません。
『一点』は、目の前のヴァイオリンの響きを、耳で聴き分けるほかありません。
そして、『一点』は、音を区切る概念でも、細切れにする奏法でもありません。
一音いちおんが『一点』を射抜くとは、その響きが次の音へと流れ、
音楽を生きて進ませることに他なりません。
中間はありません。0か100かです。
その音が『一点』を射抜いたとき、初めて奏音になります。
楽器が豊かに響いているかどうかに、流儀はありません。
バッハの、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ
そう勧められることがあります。
しかし、バッハの無伴奏は、そのように気軽に弾ける曲なのでしょうか。
ヴァイオリンの音程は、開放弦との共鳴、旋律、重音で、取り方が異なります。
その中からどれを選ぶのかという選択も、必要になります。
ヴァイオリンにおいて、
【開放弦】は、固定された音程を提供します。
【旋律】は、表現豊かな動きを生み出します。
重音の伴奏がつくなら、【重音】と【旋律】の音程を相互に調整すれば済みます。
複数の【旋律】が同時に進み、重なり合って【重音】が生じる。
そのとき、どの【旋律】の音程に合わせて【重音】を取るのか、という問題が起きます。
しかも、その重音を奏でるには、【開放弦】が頻繁に必要になります。
動く【旋律】、複数の旋律が生む【重音】、動かせない【開放弦】。
この三つの関係を、一音ごとに判断し、調整し続ける。
その選択を永遠に悩み続ける――
だからバッハは究極の難曲であり、多くの巨匠が生涯をかけるのです。
対して、パガニーニの24のカプリースは、華やかな旋律と疾走感に満ちています。
フィンガードオクターブ、10度の重音、急速なポジション移動、大きな跳躍、
高度で複雑な運弓――技術的に至難な場面は、いくつもあります。
しかし、メロディーラインが際立つため、
ただし、誤解してはなりません。
音程の選択に迷いが少ないことと、その音が『一点』を射抜くこととは、別です。
パガニーニとて、一音いちおんが楽器を共鳴させているかは、容赦なく問われます。
選択がやさしいぶん、その音が濁っていれば、隠しようがないのです。
けれども、音程の取り方という観点で見れば、バッハの無伴奏のほうが、
はるかに難しい。
そのバッハの無伴奏を、偉大だから、よく鳴るから、と勧める。
これが、何を意味するのか。
開放弦の音とは異なる「ミ」
バッハ無伴奏ソナタ第2番のアンダンテ。
その冒頭の旋律に、「ミ」の音があります。
1オクターブ上の開放弦の「ミ」と、同一の音程になります。
しかし、この「ミ」には、伴奏の「ド」が重なります。
その「ド」を、開放弦の「ソ」から完全4度上に取るなら、
その「ド」と調和させるための「ミ」は、開放弦の「ミ」より低くなります。
そして、このアンダンテにおいて、
「ド」を開放弦の「ミ」と調和する音程で取れば、曲想から乖離するため、
ここでの「ド」は、開放弦の「ソ」から完全4度上に定めるべきです。
開放弦と同名でありながら、開放弦の「ミ」とは、異なる音程で奏でる。
ところが、これは冒頭の「ミ」と「ド」の、局所的な処理にすぎません。
この「ミ」を低く取ったまま、続く旋律をそのまま進めれば、
どこかで、メロディーラインが崩壊します。
冒頭では【重音】として調和させ、
しかも【旋律】としても破綻させない。
私も師事したヘンリク・シェリング先生の演奏が名演と評されるのは、
この【旋律】と【重音】の問題を明確に認識し、
聴き手にそれと気づかせぬまま、その調整を成し遂げてみせているからです。
ヴァイオリンに普遍的に存在する【旋律】と【重音】の音程の取り方を
明確に認識したうえで、【開放弦】という固定された音程を、障害とは見なさずに、
そうした音程の取り方の違いを的確に微調整し続けてバランスを保てている。
これが、シェリング先生の演奏が歴史的名盤と評され続けている理由です。
それに立脚して、微調整による美を生み出す。
それこそが、操音ではない、奏音なのです。
チューナーではわからない「ミ」
では、この「ミ」を、チューナーで取れるのでしょうか。
チューナーは、開放弦の「ミ」と同じ音程の「ミ」を測ることはできます。
さらに、「ド」と調和する「ミ」の高さを示せる機種もあれば、
針の読み方で、それを測ることもできます。
しかし、そこで示された「ミ」は、いずれも音程としての高さを測っただけです。
さらに、「ド」と調和させた「ミ」を、旋律として破綻させることなく
そもそも、チューナーでは、ヴァイオリンの響きそのものは捉えられません。
チューナーで音程を測ること自体が、ヴァイオリンの響きを捨てることです。
チューナーの針を見るとき、耳は働いていません。
使うほどに、耳は破壊されていきます。
数値を見て覚えた音程は、数値の再現にすぎません。
ヴァイオリンの響きそのものは、数値では捉えられないからです。
バッハを「弾けている」と思うとき
ここまで、バッハの「ミ」をどう取るか、その響きについて述べてきました。
【旋律】と【重音】と【開放弦】のあいだで、この「ミ」はどう取ればいいのか?
それを示すのは、チューナーの数値ではなく、ヴァイオリンの響きです。
バッハであれパガニーニであれ、
ヴァイオリンで奏でるべき総ての音の、音程の適否の基準になるのです。
ヴァイオリンは、その『一点』で音程を取ったとき、豊かで美しく奏でられます。
既述のように、『一点』は、開放弦と同名音だけにあるのではありません。
ヴァイオリンで奏でるべき総ての音の中に、普遍的に存在します。
シェリング先生が奏でた「ミ」も、その『一点』を射抜いていました。
その総てで『一点』を射抜いていた。
もっとも、ここで、はっきりさせておかなければなりません。
バッハ無伴奏ソナタ第2番のアンダンテ、その冒頭の「ミ」。
これは、誰もが認識できる、わかりやすい一例にすぎません。
この箇所での音程の問題さえ認識できず、解決も示せないようでは、
さきに見たように、バッハの無伴奏が勧められ、
弾き通せば、弾けていると思われています。
しかし、そう勧め、そう思えるのは、
『一点』が聴こえていれば、そうは言えません。
バッハの無伴奏を、安易に「弾こう」「弾けている」とは、言えないはずです。
なぜ、そうなるのか。
何巡しても、濁りは拭えません
『一点』を外した音は、濁ります。
その濁った音のまま弾き続ければ、耳はどうなるのか。
一音いちおんの中に『一点』を、峻厳に聴き分け弾き示せるようにするための
教材です。
いわば「薬」です。
『一点』を知る指導者という主治医が、学習者という患者の症状を診断し、
あらゆる音形と演奏技術において『一点』を奏でられるように処方するもの。
ある患者に必要な薬が、別の患者には毒となることも、当然あります。
ところが、最初から最後まで順番に、何巡も弾かせる指導があります。
それは、薬棚にある薬を、片っ端から全部飲ませるようなものです。
そのようなことは、医学ではあり得ません。
ヴァイオリンの指導においても、決してあってはならないことです。
そのとき、エチュードは薬ではなく、耳を破壊する毒になります。
『一点』を見極めることもなく何巡弾いても、濁りは拭えません。
それどころか、何巡するほどに濁りは身体に刻まれ、
『一点』を見極め、濁りを聴き取るべき耳が、破壊されていくのです。
壊れた耳は、自分の濁りに気づきません
『一点』を外したまま弾き続けると、左手は響きの悪い音程に固まります。
右手は鳴らない音を鳴らそうとして、無用な力を帯びていきます。
その力は身体への負担となり、やがて不調を招きます。
混濁した響きを、生徒の耳が「正解」として受け入れてしまえば、
その誤りは身体に刻み込まれ、修正には何倍もの労力を要します。
そして恐ろしいことに、壊れるのは生徒の耳だけではありません。
その指導者の耳もまた破壊され、
混濁した響きの中にいることにさえ、気づけなくなってしまうのです。
『一点』を聴き分ける力を失った耳は、些末な変化に翻弄されます。
圧力のわずかな違い、指の角度のぶれ、音の揺らぎ――
楽器を弄り回しながらそれを捉えることを、聴き分ける力だと誤解するのです。
これこそ、操音の世界です。
楽器を操作し、弄り回し、些末な変化を追いかける。
その耳には、『一点』は永遠に聴こえません。
弾き散らかすのは「作業」です。
ヴァイオリンの本来の美しい響きによる「演奏」ではありません。
ここで、こう思う人がいるかもしれません。
音程は難しいから、まずは美しい音を。音程は、追々で構わない、と。
しかし、ヴァイオリンにおいて、音色と音程は、別のものではありません。
ヴァイオリンの真に美しい音色は、『一点』の響きの中にこそあるのです。
『一点』を外した音は、どれほど音色を磨こうとしても、濁ったままです。
いくら弾き通せていても、いくら徐々に改善しようとしていても、
一音いちおんが濁っているなら、全く弾けていないことに等しいのです。
透明な水は、一瞬の濁りも隠せません
ここに、『一点』を映し出す鏡があります。
モーツァルトです。
モーツァルトの作品は、楽譜を見れば、音符は複雑ではありません。
超絶技巧が次々と現れるわけでもありません。
ところが実際に弾いてみると、これほど難しい音楽はありません。
モーツァルトの音楽は、透明な水だからです。
透明な水は、僅かでも濁ると、すぐに分かります。
すべてが濁りとして、聴き手に伝わってしまいます。
しかしモーツァルトは、あらゆる揺らぎを、一瞬も隠すことができません。
だからこそ、コンクールの課題や、プロのオーケストラの入団試験といった、
演奏の本質を問う場所で、繰り返し使われ続けているのです。
このことは『モーツァルト――透明な水』で詳しく述べました。
バッハが、音程の選択を永遠に問う難曲であるなら、
モーツァルトは、濁りの有無を一瞬も隠せない難曲です。
バッハの三つの音程要素も、モーツァルトの透明な水も、
操音では決して届かなかったその響きが、楽器の上で成立するのです。
当教室の発表会では毎年、国内外の一流の演奏現場にも立ち会われてきた
日本ピアノ調律師協会委員長の方に、会場のピアノの調律をお願いしています。
その方もまた、私の教室の生徒たちの響きの美しさと豊かさに驚かれます。
ヴァイオリンを始めて間もない生徒までもが、
豊かな響きと美しい音色で、一音たりとも乱れのない演奏をする。
それを初めて目の当たりにした指導者が、ご自身の教室の生徒との、
あまりの次元の違いに、言葉を失ったことがあります。
これは、常に『一点』を峻厳に見極める指導と練習の成果に他なりません。
その響きは、耳から耳へ
では、『一点』は、どこから来るのか。
シフェルブラットから鷲見四郎先生へ。
世界的名教師の系譜の中で、耳から耳へと継承されてきた響きです。
その指導を傍らで見続け、歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生です。
私はその両先生に師事し、特に四郎先生のもとでは
13年にわたって研鑽を積みました。
その四郎先生は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を弾いて、
しかも、初代の優勝に続いて二度目も制されたため、
優勝者は再び参加できないという規定が、設けられたほどでした。
四郎先生のもとでの指導は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調の
冒頭の「シ」の音程に存在する5種類の『一点』の弾き分けだけでも、
数時間に及ぶものでした。
冒頭のたった一つの「シ」に、5種類の『一点』がある。
シェリング先生の「ミ」が、文脈によって『一点』を変えたのと、同じことです。
「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。
しかし「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです。
『一点』は、文字にも、録音にも、動画にも残せません。
世代を超えて連鎖する「耳の破壊」
エチュードを、何巡も弾かせる。
チューナーを使い、エチュードを弾き通し、音程は後から直せばよい――
それだけではありません。
『一点』を聴き分ける耳の能力そのものを、破壊されてしまっているのです。
幼い頃からヴァイオリンを弾き、音楽大学へ進む。
音大の教授もまた、同じ道をたどった延長線上にいるにすぎません。
その問いになると、言及されないか、根拠の示されない言葉が返るだけです。
教授自身も、そうした言葉を言われ続けてきたからです。
これは、教授個人の問題ではありません。
音大も、音高も、音中も、同じ構造の中にあります。
留学先でも、根本は教えられません。
先方の教授に、今さらゼロから教える時間も意思もないからです。
表面的な音楽表現だけが上塗りされ、帰国後もそれが再生産されていきます。
やがてその学習者が指導者となり、また同じ指導で、次の学習者の耳を破壊する。
『一点』を聴き分ける耳の破壊が、世代を超えて、連鎖していく。
そして、恐ろしいことに、この連鎖に、誠実さは関係ありません。
むしろ、誠実な指導者ほど、広く行われている指導を、忠実に実践します。
誠実であるほど、熱心であるほど、深くその連鎖に取り込まれ、
耳が破壊されていくのです。
どうすれば学べるのか
ここまで読まれて、こう思われたかもしれません。
自分の耳も、すでに破壊されているのではないか。
もう、手遅れなのではないか、と。
そうではありません。
破壊された耳も、『一点』を射抜いた響きを、繰り返し聴くことで、
再び聴き分ける力を取り戻していきます。
刻まれた濁りをほどくには、相応の時間がかかります。
けれども、正しい響きを受け取り続ければ、耳は必ず再生に向かいます。
では、どうすれば『一点』を学べるのか。
『一点』は耳から耳へしか伝わらない。
そう思えます。確かに、本来はそうでした。
しかし今は、そう単純ではありません。
その耳もまた、破壊されてしまっているのです。
「正しい」とされてきたものの根拠は、一度も問われてこなかった。
だから、たまたま達者に弾けたという経験はあっても、
『一点』を射抜いた響きを、画面越しではなくその場で聴かせてくれる先生。
自分の音が射抜いているか外しているかを、その場で聴き分けてくれる先生。
『一点』に、総てが収束する
収束し、統合されていきます。
どのような曲においても、どのような超絶技巧においても、
当教室には、趣味で学ばれる方から、音大生、プロ奏者、指導者(ヴァイオリンの
先生)まで通われています。
(詳しくは『初心者から音大生・演奏者まで』のページをご覧ください)
指導者が他の教室に習いに行くことは、通常ありません。
それでも来るのは、ここでしか得られないものがあるからです。
あなたの音は、操音か、奏音か
ここまで読まれて、もう一度、最初の問いに戻ります。
弦を押さえ、弓を動かし、楽器を操作して音を出す。
チューナーの数値に合わせ、エチュードを何巡も重ね、音色だけを追いかける。
それは、操音です。
その操った音は、『一点』を射抜いていません。
倍音が豊かに響かず、混濁したままの響き――
それは、もう一つの「そうおん」に近づいていきます。
騒音です。
操った音は、本当は、騒音にすぎないのではないか。
操音・奏音・騒音――同じ「そうおん」でありながら、
最後に問われるのは、ただ一つ。
その音が、ヴァイオリンの本当の音(おと)であるかどうかです。
その問いに、今すぐ向き合ってください。
決断は、今です。
東京都狛江市にある美しい音色・正しい音程・伝統の奏法重視の
「イワモト ヴァイオリン教室」
住所(狛江教室):〒201-0003 東京都狛江市和泉本町2-31-4メイプルビル301
営業時間 :10:30~23:30(日・月・水・木・土)
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カテゴリ: 究極のヴァイオリン奏法
