エチュードの、本当のレッスン――ヴァイオリン指導の核心

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 イワモト ヴァイオリン教室では
 「正しい音程」 (正確音程
 「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
 基礎的な演奏技術を大切に指導
 一音いちおん丁寧に
 各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています

薬棚に並ぶ薬――エチュードもまた、指導者が学習者の状態を診断して処方するものです。

エチュード――本当レッスンできているのか

 「あなたは生徒に、エチュードレッスンしていますか?」

 

 多くの指導者が「はい」と答えるでしょう。

 カイザーをやらせている。

 クロイツェルをやらせている。

 ドントをやらせている。

 

 しかし、その「やらせている」が意味することを、改めて問い直してみると――

 

 「エチュードを弾き通させている」

 それ以上でも、それ以下でもないのです

 

 さらに踏み込んで言えば、こういうことです

 「止まらずに最後まで弾き通せるようにさせている」

 それが、多くの場合の実態です

 それは、弾き熟す(こなす)こと上達と勘違いさせてしまっているのです

 そしてそれは、混濁した響きを弾き散らかすだけの「作業」でしかありません。

 

 その結果、弾き通せるようにはなっていく。

 しかしそれは、混濁した響きを身体に刻み込みながら

 弾き熟し(こなし)ているだけです

 

なぜ、同じ注意が繰り返されるのか

 「もっと高く」

 「もっと低く」

 「強すぎず、弱すぎず」

 「速すぎず、遅すぎず」

 「もっと聴いて

 「もう一回」――指導者はこう言い続けます。

 けれども、その響きはどこか曖昧で、外れたままです

 いつまで経っても、ヴァイオリン本当に鳴りきった美しい響きが生まれません。

 

 それは、その注意には、目指すべき基準そのものが示されていないからです

 

 基準が示されないまま繰り返せば、曖昧さそのものが身体に刻み込まれていきます。

 擦弦楽器であるヴァイオリンでは、音を伸ばすほどにその曖昧さはさらに深く刻まれ

 ていきます。

 

 その繰り返しの先に生まれるのは、

 「まあ、こんなものか……」という絶望です

 

 そしてさらに深刻なのは、その絶望さえ感じなくなることです

 

 つまり、エチュード本当意味レッスンできていないです

 

なぜ指導者が、本当レッスンができないのか

 「なぜ自分は、エチュード本当意味レッスンできないのか」

 

 それは、指導者自身の問題ではありません。構造の問題です

 

 幼少の頃からヴァイオリンを弾き続け、音楽大学へ進む。

 そして音大の教授もまた、同じ経緯を辿った延長線上に居るに過ぎません。

 

 そうした現代の音大では「とりあえず弾き通せるようにする」ことが優先されます。

 音大のみならず、音高も音中も同様です

 入学試験、定期試験、卒業試験――そこで求められるのは、

 ヴァイオリン本当に鳴りきっている響きを峻厳に見極める能力ではなく

 「指定されたを、指定されたニュアンスで、弾き通すことです

 

 その結果、音大を出ても、プロとして活動していても、自らの耳で

 ヴァイオリン本当に鳴りきっているかを判別すること知らないまま指導にあたる

 ――この構造的な空洞化が、現代のヴァイオリン教育の最も深刻な問題です

 

 つまり、エチュード本当意味レッスンできないのは、

 指導者自身が、エチュードだけでなくヴァイオリン本来奏法そのものを

 「習ったことがない」からなのです

 指導者自身が「弾き通すこと」しか知らないまま育ち、

 生徒にも「弾き通すこと」しか教えられないのです

 

 ヴァイオリン本来奏法は、今や伝承の危機に瀕しています

 

基準の正体――『一点』

 『一点』とは、音を区切る概念でも、細切れにする奏法でもありません。

 ヴァイオリンという楽器の個体差を超えて全体が共鳴し、倍音が豊かに鳴りきる

 美しい響きの成立点です

 それは特定の音だけに存在するものではなくヴァイオリン奏でるべき

 総ての音の中に普遍的に存在します。

 

 その響きは持続音として次の音へと流れを生み、音楽に推進力を与えます。

 むしろ『一点』を射抜いた響きこそが、音楽の流動を生む唯一の根拠なのです

 『一点』を射抜いた響きは、前の音から引き継いだエネルギーの流動として、

 次の音へと向かい続けます。

 音を断ち切るものではなく、音楽を生きたものにする力です

 

 チューナー音程確認しても、『一点』はわかりません。

 チューナーが測れるのは単音の周波数という数値だけです

 その数値の外側に、ヴァイオリン本当に鳴りきる瞬間があります。

 ピアノも録音も、同様です

 『一点』の響きは、耳によってのみ聴き分けることができます。

 

 この『一点』こそが、エチュードレッスンする際の

 判断基準そのものとなるのです

 そしてエチュードとは本来様々な音や状況のなかにあってもなお、

 一音いちおんの中にこの『一点』を、峻厳に聴き分け弾き示せるようにするための

 教材です

 

 「その音は鳴りきっているのか」

 「どの瞬間に響きが死んだのか」

 「どこで身体の動きが破綻したのか」

 「なぜ響きは混濁したのか」

  『一点』響きは、ある程度鳴っているという性質のものではありません。

 鳴りきっているか、鳴りきっていないかです

 ヴァイオリンにおいて、『一点』か否かは「0か100か」です

 その曖昧さを許容し、混濁した響きを脳が「正解」として受け入れた瞬間、

 その誤りは身体に刻み込まれ、その修正には、何倍もの労力を必要とします。

 

 『一点』を外したまま弾き続けると、左手響き悪い音程に固まり、

 右手は鳴らない音を鳴らそうとして無用な力を帯びていきます。

 その力は身体への負担となり、やがて不調を招きます。

 

 逆に、『一点』が定まった瞬間から、身体は本来の動きを取り戻します。

 左手の運指が整い、右手の運弓が導かれ、ポジション移動が安定し、

 ビブラート豊かになる。

 『一点』響きが流動を生み、フレーズが自然に連なり、音楽になるのです

 

エチュードは「処方」されるべきものである

 学習者ごとに、今何が必要かは異なります。

 ある人に必要な課題が、別の人には不要であることも珍しくありません。

 エチュードとは、いわば「薬」です

 『一点』を知る指導者という主治医が、学習者という患者の症状を正確に診断し、

 その時点で必要な課題だけを「処方」するものです

 

 学習者ごとに、どの音が『一点』から外れ、どの身体操作が破綻しているのかを

 見極め、その時点で必要な課題を的確に与えるのです

 

 ところが世の中には、エチュード最初から最後まで順番に全部やらせる、

 何巡も弾かせるという指導が存在します。

 それは薬棚にある薬を片っ端から全部飲ませるようなものです

 そのようなことは医学ではあり得ません。

 ヴァイオリン指導においても、決してあってはならないことです

 全を弾き通すことで学習者の集中力は散漫になり、

 一音いちおんを峻厳に聴く耳を破壊していきます。

 

生徒の耳を守ることが、指導者自身の耳を守ることになる

 『一点』を外したまま弾き続けることは、混濁した響きを生み続けます。

 エチュードだけの問題ではありません。

 スケールでも、楽でも――ヴァイオリン演奏の総てにおいて起きていることです

 

 そうした混濁は、教室全体に広がっていきます。

 一人の生徒の混濁した響きに気づけないまま指導を続けることで、

 指導者の耳はその混濁を「普通」として受け入れるようになります。

 やがて教室全体の演奏のクオリティが、知らず知らずのうちに下がっていくのです

 

 生徒は「沢山弾いた」「何冊も終わった」という達成感だけを抱えたまま、

 ヴァイオリン本来響きから遠ざかっていきます。

 そしてその繰り返しを毎週目の前にする指導者の耳もまた、知らず知らずのうちに

 混濁を許容してしまい、やがてそのことに気づかなくなってしまいます

 そうして、弾き熟し弾き散らかすこと上達だという誤認が、

 教室全体に定着していくです

 

 そのような指導を続けてしまう指導者の耳もまた、既に『一点』を聴き分ける能力を

 失っているのです

 あるいは、そもそもヴァイオリン本来奏法を習ったことがないのかもしれません。

 

 そして、実は『一点』を聴き分ける能力を失った耳は、些末な変化に翻弄されて

 しまうが故に、それを微細な変化を聴き分けられると誤解してしまうのです

 そうしたこともあって、既に耳が壊れていることに、

 その指導者自身も気づきにくいのです

 そしてその指導を受け続ける生徒の耳もまた、破壊されていくのです

 

 生徒の耳を守ることは、指導者自身の耳を守ることに直結しているです

 

『一点』は、耳から耳へ

 『一点』を峻厳に認識するように導く指導には、指導する側の圧倒的な耳の能力と、

 一音いちおんに向き合う膨大な手間暇が必要です

 学習者が急増し、指導の効率化が求められる時代の中で、

 この指導は失われていきました。

 音楽大学においてさえ、今やこの奏法は教えられなくなってしまいました。

 

 アウアーからシフェルブラットへ、シフェルブラットから鷲見四郎先生へ。

 その指導を傍らで見続け、歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生です。

 私はその両先生に師事し、特に四郎先生のもとでは13年にわたって研鑽を

 積みました。

 その四郎先生こそ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏ホ短調を演奏して

 日本音楽コンクール初代優勝を果たされた方です。第2回も四郎先生が優勝された

 ため、優勝者は再度参加できない規定が設けられたほどでした。その四郎先生

 もとでの指導は、冒頭の「シ」の音程に存在する5種類の『一点』の弾き分け

 だけでも、数時間に及ぶものでした。

 

 「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。

 しかし「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです

 

 『一点』は、文字にも、録音にも、動画にも残せません。

 エチュードを何巡こなしても、たどり着けるものではありません。

 耳から耳への継承にしか、受け継がれないものです

 

 全巻を順番にこなすことは、薬棚の薬を端から全部飲むことと同じです

 それは指導ではありません。耳の破壊です

 エチュードを何冊終えたか。何巡こなしたか。それは問題ではありません。

 一音いちおんの中に『一点』を実現できているか。それだけが問題なのです

 

 『一点』を教えられたこともなければ、学んだこともない指導者による、

 チューナー音程を管理し、エチュードを全順番に弾き通させるという

 誤った指導の連鎖が、世代を超えて続いています

 

『一点』が、教室を変える

 当教室には、趣味で学ばれる方から、音大生、プロ奏者、指導者(ヴァイオリンの

 先生)まで通われています。

 (詳しくは『初心者から音大生・演奏者まで』のページをご覧ください)

 指導者が他の教室に習いに行くことは、通常ありません。

 それでも来るのは、ここでしか得られないものがあるからです。

 

 「何かが違う」という感覚を長年抱えながら指導を続けてきた。

 その違和感の正体が、ここで初めて言葉ではなく響きとして立ち現れる。

 それが『一点』です

 

 『一点』を射抜く耳は、初歩の基礎だけに関わるものではありません。

 運弓、運指ポジション移動ビブラート、音楽表現――ヴァイオリン演奏の総てが

 『一点』という一つの根拠へと収束します。

 

 『一点』本当に聴き分けられるようになった時、技術は個別の要素としてではなく

 一つの響きの必然として統合され始めます。

 『一点』を知る者は、技術の総てを高い次元で体得しているです

 だからこそ、どのようなにおいても、どのような超絶技巧においても、

 その演奏本物響きとして成立するのです

 

 『一点』を耳で確かめた指導者に、共通して起きることがあります。

 毎週繰り返していた同じ注意が、次第に必要なくなっていく。

 指導者の生徒自身が響きを探し始める。

 無用な力みが消え、弾きにくさや身体の不調を訴える生徒が減っていきます。

 指導者の耳が変わると、教室全体の音が変わります。

 それはあなたの生徒一人ひとりの音楽人生を、直接変えることです

 

 弾き熟す(こなす)ことは「作業」です

 『一点』を射抜いた響きこそが、ヴァイオリンの「演奏です

 エチュード本当レッスンとは、「作業」ではなく演奏」を叶えるものです

 

 決断は、今です。

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