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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
「軌跡」とは何か
「奇跡」と「軌跡」は、「きせき」として同じ読み方をします。
しかしこの二つは、まったく異なるものです。
「奇跡」は、偶然の重なりとして現れる現象です。
「軌跡」は、必然の連なりとして刻まれてきた足跡です。
ヴァイオリンの指導に求められるのは、「奇跡」ではなく「軌跡」です。
ヴァイオリンの指導における「軌跡」とは、一つの音の真実を、師から弟子へ、
その連なりは、文字として記録できます。
録音にも、動画にも残せます。
しかし、その記録は、その奏者が奏でた音の結果に過ぎません。
そして、その記録から、正しい音かどうかを判断する耳は育ちません。
その場で鳴っている音を耳で判断し、正しいかどうかを即座に見極めさせる指導も、
記録として残すことはできます。
しかし、その記録から、正しい音かどうかを判断する耳は育ちません。
「軌跡」は、その場で鳴っているヴァイオリンの音としてのみ、
この記事は、その「軌跡」の話です。
その練習は、どこへ向かっているのか
長年、弾いてきた。
練習も、積んできた。
徐々に弾き熟せている(こなせている)。
けれども、弾き熟せれば、それでいいのでしょうか?
しかし――「どうすればいいのか」を、明確には示しきれない。
その想いを、はっきりと言葉にしたことはありますか?
おそらく、多くの方が、その気持ちを飲み込むしかなかったはずです。
では、真の上達とは何か。
「奇跡の人」はサリヴァン先生
ヘレン・ケラーは「奇跡の人」と呼ばれています。視覚と聴覚を失った状態から、
教育によって言葉を獲得し、社会に影響を与える存在になったことから。
けれども、そのヘレン・ケラーに言葉を与えたアン・サリヴァンこそが、
真の「奇跡の人」とも言えます。
サリヴァン先生は、視覚と聴覚を失った少女ヘレン・ケラーの手に水を当てながら、
その手の平に「water」と綴り続けることで、言葉を教えた教師です。
サリヴァン先生がヘレン・ケラーに行ったことは、「奇跡」ではありませんでした。
手に感じる水という現象と、「water」という記号。
これを徹底して一致させ続ける。
あれは感動的な逸話である前に、極めて冷徹な事実の一致です。
曖昧な比喩でも、感覚的な励ましでも、芸術的な語りでもなく、
ヴァイオリンが今まさに鳴りきっているその状態を、音と一致させ続ける。
指導の現場で求められるのは「奇跡の人」ではなく「軌跡の人」です。
「軌跡」とは、師から弟子へ、耳から耳へと受け継いできた者たちの連なりです。
その「軌跡」が受け継いできた「一つの音の真実」とは、何なのでしょうか。
「真の上達」をもたらし、軌跡が受け継いできた「一つの音の真実」。
それが『一点』です。
『一点』とは、ヴァイオリンという楽器で、楽器の個体差を超えて全体が共鳴し、
倍音が豊かに鳴る、物理法則によって定まる「響くポイント」です。
『一点』は、観念や理想論ではありません。
その場で楽器が鳴りきっている音として、直接確認できる現象です。
チューナーが捉えられるのは、単音の高低という一次元の数値だけです。
録音された音源もまた、収録技術の限界ゆえに『一点』の響きを伝えません。
『一点』は、その場でヴァイオリンの生の響きのなかから耳でしか捉えられない
現象なのです。
そしてその耳は、『一点』を知る指導者のもとで、一音いちおんと向き合い続ける
ことによってのみ育ち、『一点』が再現可能な確信として根付いていきます。
『一点』が鳴りきるとき、音量を意図して出す必要はありません。
鳴りきった響きは、決して「出した音」にはなりません。
大きく鳴らそうとする力みは、むしろ『一点』から遠ざかります。
鳴らそうとして生まれた音とは、原理の異なる別の現象だからです。
弾き熟す(こなす)ほどに失われる上達
エチュードを全巻弾き通させることは効果的な指導とされています。
まず弾き通してから音程を直すことは現実的な方法とされています。
それこそが「当然」とされています。
しかしその「当然」の中で、『一点』は静かに失われていきました。
チューナーが測れるのは、単音の高低という一次元の数値だけです。
ヴァイオリンが個体差を超えて全体で鳴りきる『一点』は、どれほど精密な
チューナーでも捉えられません。
ピアノでヴァイオリンの『一点』の響きを鳴らすことはできません。
「チューナーで音程を取り続けた生徒の音には、チューナーのような音がする。」
「ピアノで音程を取り続けた生徒の音には、ピアノのような音がする。」
当教室には指導者(ヴァイオリンの先生)の方々も習いに来ていますが、
これはそのお一人が、ご自身の生徒さんを通じて気づいたことです。
ヴァイオリン以外のものを基準にした結果、ヴァイオリン本来の響きそのものが
置き去りにされてしまう。
これは単音においてもそうですが、重音においてはさらに深刻です。
重音の響きは、チューナーでは測ることすらできません。単音はともかく、
重音では聴くに堪えない音程がコンクールの舞台においてすら少なくありません。
エチュードを順番に弾き通させることは、学習者が今まさに必要としている課題を
見極めることなく、必要な薬も不要な薬も区別なく飲み続けさせることと同じです。
全曲を弾き通すことで学習者の集中力は散漫になり、一音いちおんに対する峻厳さが
失われていきます。
まず弾き通してから音程を直すという方法もまた、同じ誤りです。
最初の一音から『一点』としての正しい響きを求め続けなければ、
誤った音程は脳と身体に刻み込まれていきます。
刻み込まれるほど、修正は困難になります。
こうした指導の中で、弾き熟す(こなす)ことを上達と勘違いさせてしまう。
それでは濁った響きで弾き散らかすだけになります。
これは能力の問題ではありません。真剣に取り組んできた人ほど、陥ります。
真の上達もまた、遠ざかります。
基準そのものが、物理的な真実から外れているからです。
なぜ、その誤りは続くのか
エチュードの網羅的使用。
弾き通してから徐々に直す。
なぜか。
『一点』を教えられない指導者自身が、そのような指導を受けたからです。
『一点』を知らないまま指導者になった者には、違和感を覚えるべき基準そのものが
ないからです。
誤った指導を誠実に続け、その指導が正しいと信じて疑いません。
違和感がないのは、問題がないからではありません。
問題を問題として認識するための基準そのものが、ないからです。
『一点』を峻厳に見極める指導には、指導する側の圧倒的な耳の能力と、
学習者が急増し、指導の効率化が求められる時代の中で、この指導は失われて
いきました。
音楽大学においてさえ、今やこの奏法は教えられなくなってしまいました。
その結果、音楽大学を出ていても、プロとして活動していても、
『一点』を知らないまま指導者になってしまっている者が少なくありません。
その連鎖が、世代を超えて続いています。
「軌跡」の実体――耳から耳へ
しかし、その連鎖のなかでも、受け継がれている、ヴァイオリン本来の奏法の
「軌跡」は存在します。
ハイフェッツ、ミルシテインらを育成したことで知られるレオポルト・アウアー。
その高弟ニコライ・シフェルブラットに師事したのが鷲見四郎先生。その指導を
傍らで見て歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生。私はその両先生に師事し、
特に四郎先生のもとでは13年にわたって研鑽を積みました。
そうした系譜のなかで、耳から耳へ受け渡された『一点』の系譜――これが
「軌跡」の実体です。
四郎先生は、日本音楽コンクールで初代優勝された際、メンデルスゾーンの
ヴァイオリン協奏曲を演奏されました。私へのレッスンでは、その冒頭の
「シ」の音に存在する五種類の『一点』の弾き分けだけで、数時間に及ぶ
ことがありました。
一音の中にそれだけの世界があり、その世界を聴き分ける耳なしには、
「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。
著名な教授の名前は、授業での受講や、室内楽の講義への数回の参加だけでも、
音楽大学の卒業生の経歴に記載されることがあります。
しかし、「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです。
師事した指導者の名前の列記は、「軌跡」の継承の証明にはなりません。
証明になるのは、その名前のもとで実際に何を受け取ったか、ただそれだけです。
『一点』は、文字にも、録音にも、動画にも残せません。
師事歴の名前の列記のなかでも、伝わりません。
耳から耳への継承にしか受け継がれない――それこそが「軌跡」なのです。
別の教室から移ってこられたお子さんがいますが、弾き通すことにばかり注力して
ヴァイオリンの響きを奏でる方向での指導は受けていないことが見て取れました。
そこで、一音いちおん『一点』としての響きを探し、聴き、確かめることを
繰り返し指導し続けました。
すると数週間のうちに、お子さん自身がその耳で『一点』を聴き分け求めるように
なるとともに、ヴァイオリンの響きも、弓の動きも自ずと整ってきました。
これは技術の矯正ではありません。
ヴァイオリンの『一点』を求めながら奏で続けたことにより、楽器との軋轢が解消
ヴァイオリンの音程が『一点』という本来の場所に収まるとき、それを奏でる
身体と楽器が調和します。そして、運指も、運弓も、呼吸も、その響きに導かれ、
自ずと統合されていくのです。
『一点』――聴取への継承の「軌跡」
『一点』を軸に育てられた耳は、演奏会の客席においても、ヴァイオリンが
当教室の生徒さんの保護者の方が、著名なソリストが指導する若手演奏家たちの
演奏会を聴きに行かれました。
その方はこう話してくださいました。
聴くに堪えないものでした。」
「特に重音の音程は、その場から逃げ出したくなるほどでした。」
「岩本先生のレッスンを聴き続けてきたお陰で耳が育ったからこそ、
わかってしまったのです。」
これは聴き手による批判ではありません。
さらに弾き手による練習不足でもありません。
単音において『一点』を知らず、重音のヴァイオリン本来の響きも知らず学べず、
ただ混濁した響きを鳴らす「作業」をしているだけで「演奏」になっていない。
その事実に、指導する側も、指導される側も、気づけていないのです。
どれほど優秀な演奏家であっても、『一点』の継承がなければ、すべてが崩れ、
当教室には、趣味で学ばれる方から、音大受験を目指す方、音大生、コンクールを
目指す方、プロ奏者、指導者(ヴァイオリンの先生)の方々まで通われています。
(詳しくは『初心者から音大生・演奏者まで』のページをご覧ください)
指導者は通常、他の教室に習いに行くことはありません。
長年抱えてきた疑問の答えが、ここにあるのではないかという期待からです。
そしてここで『一点』という回答の存在を知り、その実際を目の当たりにする。
『一点』はあらゆる音符に存在し、同じ音符に対しても複数存在します。
その選択と見極めを学ぶほどに、ヴァイオリンのあらゆる技術との関連が見えてくる。
だからこそ、それを学び続けて、ヴァイオリン演奏に磨きをかけ続けるのです。
ここで増えるのは、知識ではありません。
『一点』のあらゆる技術への波及と、その選択と存在の明確化こそが、
ヴァイオリン本来の奏法を学ぶレッスンで希求されることの総てなのです。
その場で鳴っているヴァイオリンの響きにおいてのみ確認される『一点』
その音と技術の総てに対して、より豊かで美しい響きをもたらす『一点』
「軌跡」は、選んだ人にしか始まらない
私は「奇跡の人」ではありません。
アウアーからシフェルブラットへ、シフェルブラットから四郎先生へ、
四郎先生から私へと受け継がれてきた『一点』の響きを、次の一人に手渡すことは
できます。
その答えは、私が与えるものではありません。
あなた自身の耳が、『一点』に出会ったとき、はじめて生まれるものです。
あなたはまだ『一点』に出会えていません。
しかし『一点』を知ることで、あなたの演奏は飛躍的に上達します。
その「軌跡」の先へ、一緒に進みましょう。
決断は、今です。
東京都狛江市にある美しい音色・正しい音程・伝統の奏法重視の
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カテゴリ: 究極のヴァイオリン奏法
