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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
表現: 強弱・フレージング・アーティキュレーション
そのように技術が個別の項目として分類され、そう認識されていることから、
「音程」もまたそのひとつとされ、演奏技術の習熟に応じて徐々に改善していくもの
勘と経験のなかで定まり、身につけるものだと、
考えられるようになってしまいました。
その結果、まずは様々な演奏技術が次々と教えられ、学ばれるようになります。
そして次々とエチュードを弾き通し弾き熟す(こなす)ことが上達だとされ、
そうした弾き通しを熱心に繰り返すことこそが練習だと考えられ、
プロの演奏者や指導者(ヴァイオリンの先生)となっていきました。
しかし、その人たちに音程を教える者は、もはやいません。
ヴァイオリン本来の音程の取り方を知る者が、もはや誰もいないからです。
ヴァイオリンの様々な演奏技術のひとつにすぎないのでしょうか。
弾き通し弾き熟すことによって徐々によくなっていくのでしょうか。
『一点』とは、何か
それについては、ヴァイオリンの響きそのものから考えなければなりません。
ヴァイオリンの響きの中には、その音が最も豊かに成立する『一点』があります。
そして、ヴァイオリン本来の音程とは、この『一点』を射抜くことで成立するもの
なのです。
『一点』とは、音を区切る概念でも、細切れにする奏法でもありません。
それは特定の音だけに存在するものではなく、
『一点』は、気分や精神論ではありません。
それは主観ではなく、響きそのものに存在する物理的な事実です。
音楽に推進力を与えます。外した音は濁り、その流れを失います。
ここで、二つの誤解を、正面から解いておかなければなりません。
一つは、『一点』という言葉から、音を短く切ること、点のように鋭く弾くことを、
思い浮かべるかもしれません。
しかし『一点』とは、時間の上の一点ではありません。
力で貫くのでもありません。
力めば、楽器は鳴りません。
『一点』を射抜いた響きの中で、ヴァイオリンは自然に、豊かに鳴りきります。
もう一つは、正しい音程でも、音そのものが乏しくては仕方がない、
という考え方があります。
まず豊かな音があり、その次に、音程だ、と。
正しい音程とは、楽器全体が最も豊かに鳴りきった、その響きのことだからです。
乏しい音や濁りのある音であれば、それはヴァイオリン本来の音程ではないのです。
ヴァイオリンの真に美しい音色は、『一点』の響きの中にこそあるのです。
ですから、美しい音を取ってから、音程を合わせるのではありません。
同じ一つのことを、二つの名前で呼んでいるに過ぎません。
中間はありません。0か100かです。
しかし、ヴァイオリンが鳴りきっているかどうかに、流儀はありません。
冒頭に掲げた、あの技術項目。
左手の音程も、右手の音色も、ポジション移動も、ビブラートも、
そのいずれを用いるときも、『一点』を射抜いているかどうかによって、
同じ音符が、同じ音とは限らない
同じ音符であれば、いつも同じ場所を押さえればよい――
多くの人は、そう考えます。
その音符を左指で押さえるべき正しい場所は一つに決まっていて、
あとはそこを、外すか、外さないか、という問題だと捉えています。
しかし、実は、そうではありません。
その音符においてもっとも豊かに鳴りきる場所は、
ですから、いつも同じ場所を押さえればよい、というものではありません。
同じ音符の中に、鳴りきる場所が複数ある。
では、そのどれを射抜くのか。
それは、その音が置かれた音楽によって、変わります。
旋律の中の単音であれば、前後にどの音が鳴るかによって、
射抜くべき場所は変わります。
一つ手前の音が違えば、次に来る音が違えば、
同じ音符でも、選ぶ場所は別の場所になります。
前後の旋律とは相容れない場所が、選ばれることもあります。
開放弦と同名の音でさえ、
開放弦の共鳴による場所が、常に選ばれるとは限りません。
ここで、決定的な分かれ道があります。
同じ音符でも、音楽によって場所が変わる。
この事実から、こう考える者がいます。
ならば音程は、前後に応じて自由に、任意に微調整するものだ、と。
そして、こう続けます。
確かに、場所は変わります。しかし、任意にではありません。
変わった先の、その場所で、
楽器が最も豊かに鳴りきるか、鳴りきらないか。
楽器が、答えを出します。
自由に微調整できてしまえるのは、どこで鳴りきるかを、聴いていないからです。
外せば、濁る。射抜けば、鳴りきる。
そこに、任意の幅はありません。
音楽には、「異名同音」という語があります。
名が違っても同じ音として扱う、その事態を指す語です。
ところが、その対を指す語は、ありません。
名が同じでも、音は違う。その事実には、名前がなかったのです。
ですから、ここで私は、これを「同名異音」と呼びます。
誤解のないように申し上げます。
『一点』が動くのではありません。
変わるのは、そのどれを射抜くべきか、なのです。
確かに、同じ音符でも、音楽の流れによって射抜くべき『一点』は変わります。
しかし、それは任意に選ぶことではありません。
その時、その音楽において、射抜くべき『一点』は一つなのです。
耳から耳へ受け継がれてきた響き
アウアーからシフェルブラットへ、シフェルブラットから鷲見四郎先生へ。
世界的名教師の系譜の中で、耳から耳へと継承されてきた響きです。
その指導を傍らで見続け、歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生です。
私はその両先生に師事し、特に四郎先生のもとでは
13年にわたって研鑽を積みました。
その四郎先生こそ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を演奏して
第2回も四郎先生が優勝されたため、優勝者は再度参加できない規定が
設けられたほどでした。
冒頭の「シ」の音程に存在する5種類の『一点』の弾き分けだけでも、
数時間に及ぶものでした。
その一音の中に、『一点』が5種類ありました。
そしてその5種類は、任意に選べるものではありませんでした。
同じ「シ」という名を持ちながら、その音楽の中で射抜くべき『一点』が異なる。
これもまた、「同名異音」の一例です。
世界的な巨匠たちの取り組みもまた、この『一点』に貫かれていました。
『一点』は、一人の教師の流儀ではありません。
物理現象に、流儀はないのです。
「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。
しかし「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです。
個性は、どこに宿るのか
ここで、冒頭に述べたもう一つの考え方に戻ります。
勘と経験によって定まるものである。
――そう考えられてきました。
この考え方には、一つ、正しい部分があります。
同じ音符であっても、音楽の流れによって、
選ぶべき『一点』は変わります。
しかし、決定的に違うところがあります。
その選択は、自由に作り出すものではありません。
選ぶべき場所は任意に存在するのではなく、
その音符の中に存在する複数の『一点』の中にあります。
外した音を、個性と呼ぶことはできません。
濁り、響きを失い、音楽の流れを止めるものは、
個性が現れるのは、複数の『一点』の中から、
今この音楽において射抜くべきものを選ぶ瞬間です。
耳は、こうして壊れる
チューナーの数値を見続けると、何が起こるのでしょうか。
耳が、『一点』を捉えられるようになる道が、閉ざされていきます。
もともと捉えていたものを、失うのではありません。
まだ一度も捉えていないものを、これから捉える、
その可能性が、断たれていくのです。
捉えられなければ、選ぶこともできません。
これが、耳の破壊です。
まず、ヴァイオリンが豊かに響く『一点』を聴き分けられなくなることです。
そして同時に、同じ音符の中に複数存在する『一点』も、聴き分けられなくなる
その高低を針で読み取る機種でも、複数の値を示せる機種でも、
その結果、ヴァイオリンで奏でるべき、同じ音符の中に存在する複数の『一点』は、
耳の中で一つに潰されていきます。
「同名異音」を区別できない道具を、精密とは呼べません。
耳のほうが、はるかに精密なのです。
数値を追うほどに、耳は響きそのものから離れ、
同じ鍵盤は、いつも同じ音を出します。
「同名異音」を持たない楽器から、ヴァイオリンの音程を学ぶことは
できないのです。
「勘と経験」という、さらなる耳の破壊
では、チューナーもピアノも使わず、勘と経験で取ればよいのでしょうか。
これもまた、耳を破壊します。
勘と経験では、そもそも耳が、育ちません。
「勘と経験」と呼ばれるものにも、二つの側面があります。
過去に覚えた指の位置の記憶と、その場の感覚による音程の調整です。
『一点』を選び取った結果ではありません。
「勘と経験」だけに頼ることもまた、
弾き通しは、「同名異音」を均す
弾き通しもまた、同じです。
エチュードを、端から端まで、何巡も弾き通す。
そのとき、同じ音符が、何百回も通過していきます。
通過していくだけです。
その一音が、いま、どの音楽の中に置かれ、どの『一点』を射抜くべきなのか。
それを聴き分ける時間は、そこにはありません。
同じ音符が、何百回も、聴き分けられないまま通り過ぎる。
すると、その音符は、一つの形に均されていきます。
前後がどう変わっても、同じ場所を押さえる指が、できあがってしまうのです。
同じ音符の中に、複数の『一点』が存在する。
その事実そのものが、耳から消えていきます。
なお、まず弾き通してから直せばよい、という考え方があります。
これは、直すのが遅い、という話ではありません。
直すまでの間も、その音符は、鳴り続けています。
外したまま、何十回も、何百回も。
その一音いちおんが、複数の『一点』を、一つずつ、耳から消していきます。
直そうとしたときには、選ぶべきものが、もうわからなくなっているのです。
後で直すとは、先に耳を壊せ、ということに他なりません。
いわば「薬」です。
『一点』を知る指導者という主治医が、学習者という患者の症状を正確に診断し、
ある患者に必要な薬が、別の患者には毒となることも、当然あります。
ところが、最初から最後まで順番に、何巡も弾かせる。
それは薬棚にある薬を、片っ端から全部飲ませるようなものです。
そのようなことは医学ではあり得ません。
ヴァイオリンの指導においても、決してあってはならないことです。
しかし、ここで問わなければなりません。
処方するには、診断が要ります。診断には、耳が要ります。
均された耳には、それがわからないのです。
わからなければ、選べない。選べなければ、全部やらせるほかありません。
そもそも『一点』を知らず、教わることもできていない指導者は、
同じ音符の中に選ぶべき『一点』があることなど、思いもよらないのです。
ですから、端から端まで弾かせるほかありません。
それが聴こえていれば、指摘せずにはいられないはずです。
最も長く弾いた者が、最も深く壊れている
エチュードを弾き通した、その総て。
その一音いちおんごとに、聴き分ける力は少しずつ破壊されていきます。
そして、一度失われた聴き分ける力は、そのままでは戻りません。
失われたまま、次の一音、また次の一音と、積み重なっていくのです。
ですから、長く弾いた者ほど、射抜くべき『一点』を選べなくなっていきます。
同じ音符の中に存在する複数の『一点』を、聴き分ける力を失っていくからです。
より長く弾いてきた者ほど、より深く、その力を失っているのです。
では、なぜ誰も、そうした耳の破壊を途中で止めないのでしょうか。
そればかりか、均された音程は、褒められます。
ぶれず、いつも同じ場所で弾ける――人は、それを褒めるのです。
しかし、その同じ場所が、射抜くべき『一点』とは限りません。
射抜くべき場所を外したまま、同じ場所で弾き続ける。
それこそが、耳の破壊を招いているのです。
同じ音符が、前後を問わず、いつも同じ場所で鳴る。
それは、安定ではありません。
選べる場所が、一つしか見いだせないのです。
むしろ、音大生が、プロ奏者が、そして指導者(ヴァイオリンの先生)こそが、
最も深く耳を壊されているのです。
しかし、耳が壊れた者ほど、
耳が壊れているとは思っていません。
『一点』を聴き分ける力を失った耳は、些末な変化に翻弄されます。
圧力のわずかな違い、指の角度のぶれ、音の揺らぎ。
楽器を弄り回しながらそれを捉えることを、聴き分ける力だと、誤解するのです。
それこそが、音程が初歩の問題ではないことの、何よりの証拠です。
ここまで述べてきた耳の破壊の過程を、反転させます。
常に『一点』を峻厳に峻別し、それを踏まえた響きを奏でようとすること。
ボウイングは安定します。
冒頭に掲げた技術項目の総てが、
ポジション移動が決まらないのも、ビブラートが濁るのも、音程です。
別々の問題として抱え続けるほかないのです。
音程が正しくなる――そうではありません。
順序は、逆です。
その響きを求め続けるとき、
フレーズが自然に連なり、音楽になります。
だからこそ『一点』は、初歩の問題ではありません。
最高度のレベルに至ることのできる唯一の基準――
私の教室に学びに来られた方は、ほぼ100%、例外なく、驚かれます。
同時に、その技術が何のためにあるのかという、目的でもあります。
根幹であり、目的であるからこそ、
その先では、曖昧な芸術的表現に終始するほかありません。
耳は、耳からしか、育たない
では、その『一点』は、どこから得られるのでしょうか。
まず、消えたのは、『一点』ではありません。
今も、その音符の中に、複数、在り続けています。
消えたのは、それを選ぶ耳なのです。
その耳は、得られます。
けれども、独りでは、得られません。
『一点』は、文字にも録音にも動画にも残せません。
そして、聴き分ける耳は、聴き分ける耳によってしか育ちません。
だからこそ、その耳を持つ者から学ぶ必要があります。
メンデルスゾーンの、あの冒頭の「シ」。
その一音の中に、5種類の『一点』を聴き分ける耳は、
あなたの耳は、その受け継がれてきた耳からしか、育たないのです。
当教室には、趣味で学ばれる方から、音大生、プロ奏者、指導者(ヴァイオリンの
先生)まで通われています。
(詳しくは「初心者から音大生・演奏者まで」のページをご覧ください)
指導者が他の教室に習いに行くことは、通常ありません。
それでも来るのは、ここでしか得られないものがあるからです。
長く弾いたほど、選べない。
しかしそれは、長く弾いてきたことが無駄であったという意味ではありません。
選べなくなっていたと気づいた、その時から、
射抜くべき『一点』を、あなたの耳が、初めて知る、その時を。
決断は、今です。
東京都狛江市にある美しい音色・正しい音程・伝統の奏法重視の
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カテゴリ: 究極のヴァイオリン奏法
