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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
「正しい」は正しくない?
幼少の頃からヴァイオリンを弾き続け、音楽大学へ進む。
そして、音大の教授もまた、同じ経緯を辿った延長線上に居るに過ぎません。
そうしたことから、音大の教授に期待できるのは、主観に基づく芸術的な批評や
楽器が鳴りきるかどうかや、根本的な音程の問題になると、言及すらされないか、
されたとしても、具体的な根拠は示されず、「何とかしてよ」という類の言葉しか
返ってきません。
それは教授自身も、同じような言葉を言われ続けてきたからです。
これは教授個人の問題ではありません。音大のみならず、音高も音中も同様です。
音楽学校という制度自体が、この構造から逃れることはできないのです。
音楽学校というと、体系的で専門的な知見に基づく具体的な技術指導がされると
思われているかもしれません。しかしそれは、幻想に過ぎないのです。
音大を含めた音楽教育の現場では、「正しい」とされてきたものの根拠は、
一度も問われてこなかったのです。
つまり、何々音大卒、プロとして演奏、プロのオーケストラに所属、と謳っていても
結局はたまたま達者に弾けたという経験しか持ち合わせておらず、何が「正しい」か
よく「名選手が必ずしも名監督とならない」と言われます。
しかしヴァイオリンの指導においては、それは単なる適性の問題ではありません。
「正しい」を知らないまま教えているという、明確な理由によって生じているの
です。
そして、留学においても、楽器が鳴りきるかどうかや、音程の取り方の根本が
指導されることはありません。先方の教授にとって、それを今さらゼロから教え、
そのため表面的な音楽表現だけが上塗りされ、帰国後も、根拠を問われることのない
そうした環境のなかで、ヴァイオリンのレッスンは、日々どのように行われているの
でしょう。
根拠なき「正しさ」
「姿勢を正しく構えなさい」
指導者(ヴァイオリンの先生)であれば、こうした言葉を口にしたことが
あるはずです。あるいは、かつて自分自身がそう言われ続けてきたはずです。
では、姿勢を正しくするのは、なぜなのか。
おそらくこうした答えが返ってきます。
「右手と姿勢は、良い音で弾くため」
上記の回答に、大筋で納得される方がほとんどだと思います。
いずれも、一見正しく聞こえる説明だからです。
しかし、これでは何一つヴァイオリンの指導にはなっていないのです。
「正しい」を裏づける根拠が、どこにも示されていないからです。
「正しい」という基準を退け、「適切」や「ほどよいバランス」という言葉で説明
しようとする立場もあります。しかしそれは、基準を持たないまま経験に依拠して
いるという点で、結局は同じ構造に過ぎません。
そして「よく聴いて」という指示のもと、音楽の前後関係で音程は変わるですとか
奏者の数だけ音程がある、などということになり、結局は、勘と経験で音程は取る
つまり、冒頭のイメージ画像と同じ構造です。
そこには何も書かれていない。教えはある。根拠は、ない。
「不協和音」ではなく「不教我音」
音大では体系的な技術指導がされない。留学先でも、根本は教えられない。
なかには音律の知識や理論を拠り所として、「正しい」を説明しようとする人も
います。また、「専門誌でも音律や音程が取り上げられ、演奏家が寄稿している」
という話も出てくるかもしれません。
しかしそれらもまた、各人の経験に基づく、もっともらしく思えるだけの
私見に過ぎないのです。
音楽には「不協和音」(ふきょうわおん)という言葉がありますが、
それらはまさに「不教我音」(ふきょうわおん)なのです。
ヴァイオリンの音程の取り方を教わっていない(不教)人たちが、
自分の経験に基づく持論を述べている(我音)に過ぎないのです。
これは音程指導に限りません。楽器のメンテナンスも、弓の技術も、同じ構造の
なかにあります。それらにおける「正しい」もまた、各人の経験に基づく持論と
して語られているに過ぎないのです。
体系的な知見を持たないまま、各人の経験に基づく持論が「正しい」として広まっ
ていく。その誤りに気付かないまま、「不教我音」はヴァイオリン指導のあらゆる
領域に及んでいます。
ヴァイオリンには、楽器の個体差を超えて全体が共鳴し、倍音が豊かに鳴りきる
『一点』は単音の周波数の高低でも、音を区切るための点でもありません。
拍や時間上の一点でもなく、音が最も豊かに鳴りきることで次の音へと流れを生む、
響きの成立点です。
ヴァイオリンという楽器全体が鳴りきる複合的な物理現象であり、
チューナーが測れるのは、単音の周波数の高低という数値だけです。
『一点』は、チューナーでは捉えられません。録音では、収録技術の限界ゆえに
『一点』の響きが失われます。ピアノもまた、『一点』を示すことができません。
『一点』においてヴァイオリンが鳴りきるという現象は、数値や記録ではなく、
その場で鳴っている響きを耳によってのみ峻別できる複合的な現象です。
しかしこれを、『一点』を捉えると豊かに響くという結果と原因を取り違え、
弓幅や運動量といった外形的な操作に置き換えて理解してしまうと、本質は
見失われます。
音律もまた、同じです。旋律はピタゴラス音律、和音は純正律という知識は、
『一点』を峻別する耳の代わりにはなりません。その分類はあくまで傾向であり、
『一点』は必ずしもその分類によってのみ成立するものではないからです。
そして、音程指導に限りません。楽器のメンテナンスも、弓の技術も同様です。
それらにおける「正しい」とは、『一点』がより明確に聴き分けられる状態へと
導くものです。
その結果は、ヴァイオリン製作・メンテナンス、弓の奏法における伝統的な知見と
一致するものになります。
しかし、それ自体が基準ではありません。基準は奏者自身の耳にあります。
『一点』は、偶然に現れるものではありません。正しい指導のもとで耳を育てるこ
とによって、再現可能な現象として捉えられ、やがて確信として根付いていきます。
ヴァイオリンにおける「正しい音程」「良い音」とは、この『一点』において
鳴りきった響きのことです。そしてその響きは、耳によってのみ捉えられる。
耳から耳へ――『一点』の系譜
『一点』は、文字にも、録音にも、動画にも残せません。
耳から耳への継承にしか、受け継がれないものです。
ハイフェッツ、ミルシテインらを育成したレオポルト・アウアー。その高弟
ニコライ・シフェルブラットに師事したのが鷲見四郎先生。その指導を傍らで
見続け、歴史的名教師となったのが鷲見三郎先生です。私はその両先生に師事し、
特に四郎先生のもとでは13年にわたって研鑽を積みました。
四郎先生から私が受けたレッスンでは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲冒
頭の「シ」の音に存在する5種類の『一点』の弾き分けだけで、数時間に及ぶこと
がありました。一音の中にそれだけの世界があり、その世界を聴き分ける耳なしに
「○○に師事」という一行は、プロフィールに容易に記載できます。
しかし「名前を受け取ること」と「音を受け取ること」は、別のことです。
(→「軌跡の人へ――『一点』は、耳から耳へしか伝わらない」)
『一点』を知っている、では足りません。あらゆる音形において『一点』を峻厳に
見極め、的確に選び続ける。
『一点』が整えるもの
『一点』が定まった瞬間から、身体は本来の動きを取り戻します。左手の運指が
整い、右手の運弓が導かれ、ポジション移動が安定し、ビブラートが豊かになる。
『一点』の響きが流動を生み、フレーズが自然に連なり、音楽になる。
つまり、左指の正しい場所、左手の正しい形、右手の正しい方向、正しい姿勢とは
それらの形だけを求めるのは、探求の末に得られる結果を見ているだけであって、
その理由としての『一点』を知らないまま指導していることにほかならないのです。
『一点』を知らないまま述べられる持論は、それが著名な音楽家のものであっても、
演奏家が専門誌に寄稿したものであっても、「不教我音」の類でしかありません。
各人の経験に基づく持論が「正しい」として拡散していく。その連鎖が、日本の
『一点』を知らない指導者は、誠実であればあるほど、広く行われている指導法を
そのまま実践します。
チューナーで音程を管理し、エチュードを全曲順番に弾き通させ、まず弾き通して
から徐々に音程を直す。
その結果、同じ箇所を繰り返し直しても、音が鳴りきらないまま残る。
鳴ったとしても、それは偶然であるか、濁った響きのままである。
誤った音程は繰り返すほど脳と身体に刻み込まれ、刻み込まれるほど修正は困難に
なります。チューナーを基準にした練習を重ねるほど、『一点』を耳で求める機会
そのものが失われていきます。エチュードを全曲弾き通すことで集中力は散漫にな
り、一音いちおんに対する峻厳さが失われていきます。まず弾き通してから音程を
『一点』を外したまま弾き続けると、左手は響きの悪い音程に固まり、右手は鳴ら
ない音を鳴らそうとして無用な力を帯びていきます。その力は身体への負担となり、
やがて不調を招きます。
逆に、『一点』が定まった瞬間から、身体は本来の動きを取り戻します。
左手の運指が整い、右手の運弓が導かれ、ポジション移動が安定し、ビブラートが
豊かになる。『一点』の響きが流動を生み、フレーズが自然に連なり、音楽になる。
その前提として、『一点』を捉えやすくするためには、楽器と弓の整備も必要と
なります。当教室では、レッスンに先立ち楽器と弓の整備を行い、弦・松脂の選択
を見直すことから始めます。
その理由と内容については『導入4段階について』をご覧ください。
指導者が変わると、生徒も変わる
指導者が『一点』を知らなければ、何が失われているかさえ認識できません。
ヴァイオリン本来の美しい響きが得られていないことも、音程が外れていることも、
身体に無理が生じていることも、それらすべてが「そういうもの」として通り過ぎ
ていきます。指導者が変わらない限り、生徒は変わりません。
チューナーで音程を管理し、エチュードを全曲弾き通してから徐々に直すという
指導では、ヴァイオリン本来の美しい響きは得られません。弾き熟すことが上達と
誤解され、混濁した響きのまま「作業」として積み重ねられていきます。
その耳は、弾き込みによっては育ちません。正しい順序で、正しい基準に触れる
実際に耳で峻別し続ける環境の中でのみ、基準として根付いていくものです。
指導者自身がその場に身を置くことが、教わっていないまま教え続ける連鎖を断つ
唯一の道です。
当教室には、趣味で学ばれる方から、音大生、プロ奏者、指導者(ヴァイオリン
の先生)まで通われています。
(詳しくは『初心者から音大生・演奏者まで』のページをご覧ください)
当教室に学びに来られる方々が求めているのは、「なぜ楽器が鳴るのか」という、
指導の根拠です。その学びは、結果として、ヴァイオリンの演奏技術の総てを上達
させていきます。
その根拠を手にしたとき、指導者は初めて、生徒の音に対して「正しい」と
言い切ることができます。
根拠なき弾き込みの連鎖を、あなたの代で断つことができます。
指導者であれば、その変化は自身の生徒へのレッスンにそのまま反映されます。
ヴァイオリンにおける「正しい」とは、『一点』において鳴りきった響きのことです。
教わっていない者が、教えている。
その連鎖を断つことができるのは、『一点』を知った者だけです。
決断は、今です。
東京都狛江市にある美しい音色・正しい音程・伝統の奏法重視の
「イワモト ヴァイオリン教室」
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営業時間 :10:30~23:30(日・月・水・木・土)
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カテゴリ: 究極のヴァイオリン奏法
