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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
ですから
現在では改訂譜の版の違いに起因することが明らかになってきているものの、当時は
「ストラヴィンスキーが『春の祭典』に関してカラヤンの演奏を批判」といった話が
取り沙汰された件で、その数年後に関係者に話を聞く機会も有ったりしました。
気づいてみれば、ストラヴィンスキーは勿論のこと、何度もリハーサルを見学させて
いただいたり、お話しする機会も多かったことが縁で、僅か数公演ながら演奏に参加
させていただいたカラヤンさんも既に亡くなられていて、私も長く生きていることを
痛感させられます。
とはいえ
まだ大手を振って優先席に座れる年齢ではないものの(笑)
そうした、あまりのことに、今思い出しても唖然とさせられることの1つめは
『「弦のトホホ」(仮名)というブランドの有名無実ぶり』のなかで書いた
ビジネスの歴史に名を遺したほどの名経営者で趣味でヴァイオリンを習っている方で
記事中でも書いたように、ヴァイオリンに関しては頓珍漢の塊で
名経営者“なのに”ヴァイオリンに関して更に破茶滅茶というより
それは
世間ではよく
バッハ/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(無伴奏)は何とか弾けても
パガニーニ/24のカプリース(綺想曲)は難しくて弾けない…などといわれますが
音程の取り方も知らずにバッハ/無伴奏を弾く無謀さ』で理由を書いたように
パガニーニ/24のカプリース(綺想曲)こそがヴァイオリンの基礎で
バッハ/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(無伴奏)は応用
ということで、その名経営者も「綺想曲と無伴奏が弾けるようになりたい」と言って
いたこと自体は、頓珍漢でもなければ破茶滅茶でもありません。
また
その名経営者は、今では知らぬ人はいないコンピュータ会社の社長であったためか、
「古い、ストラディヴァリウスのコピー」と仰る楽器も、コンピュータの感覚では
古いのでしょうが、ヴァイオリンでは然程でない数十年前の安い量産品でしかなく、
弓も安価な粗悪品で、更には「炎の職人」と銘打つ工房に通うも、あまりにも技術
のない職工による杜撰なメンテナンスのために、私が渾身の力で調弦してもなお、
その名経営者は、今でこそ知らぬ人はいない会社の日本法人の社長を務めたものの、
「私が会社の社長になった当時、著名な経営コンサルタント達の助言を受けた」
「けれども、その助言はひとつも役に立たず、自ら考え行動して切り開いた」という
名経営者ならではの考え方を、あろうことかヴァイオリンの習得にも持ち込んだ点が
頓珍漢であり破茶滅茶であり奇想天外だったのです。
具体的には
「画一的な指導しかできない講師は一人もおりません」と称する教室に通うも、
綺想曲など弾ける筈もないM蔵野音大卒の先生に就いているというので、
「綺想曲が弾きたい…というのであれば、綺想曲が弾けるT朋やG大の先生に
習うべきではないのですか?」と私がお尋ねすると、既述のように
経営コンサルタント達の助言が役立たず自ら切り開いたという考え方から
「既に綺想曲が弾ける先生に習っても、私が弾けるようにはならないので、
さらに
私のサイトの
ŠEVČÍK OPUS 1 PART 1(セビシック/セヴィシック/セヴシック/セブシック)
のページで書いたように
ŠEVČÍK(セビシック/セヴィシック/セヴシック/セブシック)は
ヴァイオリンのレッスンにおける総てのスタートである…と知ると、その名経営者は
その人お一人のレッスンの際に使うかどうかではなく、教室全体でという意味で
「私が習っている先生の教室ではŠEVČÍKを使っていなかったので、
先生の教室でもŠEVČÍKを使うように言って、使うようにさせました」と
自慢してみせた際には、私は呆れるのを通り越して、倒れそうになりました(笑)
しかし
いかにビジネスの世界に名を遺した名経営者といえども、ヴァイオリンに関する
上記の考え方が誤りである理由は、ビジネスの、それも当時は未だ名も知られて
いなかった会社を大きくしていくのには、自ら考え切り開くことが有益であった
としても、ヴァイオリンに関しては、例えば音程の取り方についてみても、私の
サイトのヴァイオリンの音程の取り方のページにも書いたように、300年近い
歴史のなかで確立されている方法こそを学ぶ必要があり、音程の取り方に留まらず
既存の弾き方を習得する積み重ねにより、綺想曲も含めたヴァイオリンの演奏が
可能になることは言うまでもありません。
にもかかわらず
既述のようにŠEVČÍKの使い方も知らない先生にŠEVČÍKを使うようにさせてみたり、
既述のように綺想曲が弾けない先生と歩むと弾けるようになる…などというのは、
コンパスの使い方も地図の見方もわからない人と目的地を目指すようなもので
もっとも
このブログで何度も書いているように、例えば音程の取り方についてみた場合、
ヴァイオリンという自ら音程を作る作音楽器では音程の取り方は基礎中の基礎で
その指導には正確な知識と緻密な観察に基づく訓練の反復が必須にもかかわらず
そうした指導を受けられない者や、そうした指導を受けたことがない者が巷に溢れ
既述のように歴史的に確立されている音程の取り方など知らずわからず習わない
指導者?まで現れ、そうした指導者?に限ってヴァイオリンに関して自ら何事か
検証しているなどと大言壮語したりしますが、それこそが鼻元思案の極みであり、
そうした壮大な鼻元思案は、既述の名経営者の頓珍漢ぶりが霞む程の勘違いで、
「月とスッポン」というよりも「月と地球」のように思えます(笑)
そして、あまりのことに、今思い出しても唖然とさせられることの2つめは
私のサイトのプロフィールのページにも書いたように
天才ヴァイオリニストにして純正律の重要性を訴えられた玉木宏樹氏が
最晩年に作成された教本の構成と解説を玉木氏からの依頼により行うことになった際
今は無くなってしまった出版社の編集長が足繁く玉木氏の事務所に出入りしていて、
その編集長が頓珍漢なことを言う度に、玉木氏は何度も激怒していましたが、それは
その編集長の前職がドーナツ屋の店員さんで、趣味でトランペットを吹くだけで、
ヴァイオリンと音楽には専門的な知識も経験も無かったことが大きく影響していて、
玉木氏は何度もなんども瞬間湯沸かし器の如くに激怒し続けていました。
とはいえ
そのように専門知識が無いからダメ…などということはなく、むしろかえって
そのように専門知識が無いがゆえに、虚心坦懐に取材され編集されていた点では
非常に素晴らしい編集長でいらしたと感じていました。
そのように専門知識が無いがゆえに、優れた取材が出来ていたなかで
そのように専門知識が無いがゆえに、頓珍漢を通り越して驚愕すべきことを言われ、
既述の瞬間湯沸かし器のように激怒される玉木氏も、あまりのことに絶句されて
しまわれたことがありました。
それは
ヴァイオリンの構え方に関して、玉木氏と私を前にして、その編集長が
見たことも聞いたこともないような奇妙奇天烈・奇怪至極な動作?を披露するので
玉木氏が「そんなことをするの、聞いたことがないぞ!なあ、岩本さん」と言い
わたしも「はい、構えに様々な流儀がありますが、それは有り得ません」と言い
玉木氏が「それはポケットヴァイオリンの弾き方なら有り得るかなぁ~」と言うので
わたしが「それを考えた方は、ポケットヴァイオリンの専門家ですか?」と尋ねると
編集長が「いいえ、ヴァイオリンの専門家が考えたやり方で…」と言うので
玉木氏もわたしも「ヴァイオリンでそんな変な動作は役に立たない!」と断言するも
編集長は「これって既にうちの会社から『〇からウロコの…』という本として出版
されている」との回答には、私は勿論、瞬間湯沸かし器のように激怒する玉木氏も、
この時ばかりは怒るのを忘れて唖然とされていました。
ということで
私も『〇からウロコの…』という本を早速購入してはみましたが、今ではそれは
レッスンで音程や弾き方を追求し疲れた生徒さんの休憩時に、その本の何処か一節を
読んで聞かせてあげると、あまりに奇妙奇天烈で頓珍漢なことばかりが大真面目に
綴られていることから、生徒さんがお腹を抱えて大笑いしてリフレッシュするのに
大いに役立つ本となっています(大笑)
その『〇からウロコの…』という本は、そのように人を笑わせるための本ではなく、
その本の著者が最近教授に就任したのが、既出のM蔵野音楽大学であることや、
その本の著者が近年、「〇えのカリスマ」などと評されていることに加えて、
その本のネット上のレビューでは、役に立つなどのコメントが並ぶのを見るにつけ、
さらには
既述の専門知識が無い編集長が編んでいた雑誌は、出版社が倒産し無くなった一方、
別の社で編集部員が全員アマチュアの弦楽器愛好家という雑誌の出版は続いていて、
その『サラ…』云々という雑誌を立ち読みされた生徒さん方がレッスンの際に私に
「あれは真剣にヴァイオリンを学ぶ者にとって、まるで内容が無い」と言ったり
「あの雑誌を先生が読んだら卒倒します」などと言うので、私は読みません(笑)
とはいえ
前者の、専門家からも一定の評価を得られていた雑誌は会社が倒産し
後者の、アマチュアの愛好家が編んで一般受けして売れる雑誌が残る現状は、
ヴァイオリンは只管に道楽・お遊びの類としてしか認識されていないことを痛感
させるものであり、ガッカリしてしまいます。
そして
そのようにヴァイオリンが只管に道楽・お遊びの類でしかないと認識されるのは、
あなたのヴァイオリンが上達しない決定的な理由』で書いたように
音楽大学というのは
要するに、弾いてひいて弾きまくって、卒業演奏をしただけのことですし
コンクールにしても
要するに、弾いてひいて弾きまくって、順位が付いただけのことですし
演奏活動にしても
要するに、弾いてひいて弾きまくって、演奏活動をしているだけですし
指導団体にしても
そうしたなか、あまりのことに、唖然とさせられることの3つめこそが
上記のように弾きまくるばかりである人達が陥っている、最も唖然とすることで、
それは、100m競争の練習や試合をするというのに
なんと、100mのトラックの長さを測りもしないまま走っているうえに
そもそも100m競争は100mでするということさえ知らないかの如き
驚くべき有様にあるということです。
信じられないことにヴァイオリンの分野では、既述のように専門家さえただ只管に
弾きまくっているばかりであることに加えて、音楽学校や音楽大学の先生は勿論、
プロの演奏者や指導者の殆どの方々が、100m競争の練習や試合をする際に
ということで
ヴァイオリンの専門家達は100m競争の練習をするのに100mを測らなかったり
ヴァイオリンの専門家達が100m競争が100mで行われることさえ知らないかの
如き有様というのは、一体全体どういうことなのか?と言えば
それは弦長です。
ナット(上駒)の指板側から
駒も振動するので駒のテールピース側までの弦の長さが
(ちなみに
子ども用の分数サイズの楽器の場合は弦長は330mmにはなりませんし
サイズも大人の楽器との内部の容積の比率で決めてはいても曖昧なものですが
子どもは大人よりも手指が小さい分、弦長を規定している基準は厳密であるべきで、
お子さんがヴァイオリンを習っている場合、こうした点で、お子さんが使っている
「その分数楽器の弦長は、どのように規定されるのですか?」という質問に対して
明確に答えられないような先生には、お子さんを習わせるべきではありません)
(なお
上記のように弦長は330mm唯一に限定されるべきではないものの
上記のようにそれ以外の規定理由について言及すると、ネックとボディストップの
長さやf字孔の刻みの上下との関係など、言及すべき事例が多岐にわたるので、
ヴァイオリン弾きはほとんどの人達が、弦長330mmとは知らなかったり確認せず
テキトーな弦長のまま、左指が1mmでも違えば音程が変わる…などと言ってるのは
テキトーなトラックの長さのまま、一歩違うとタイムが変わると言っているような
ものです。
であればこそ
100m競争の練習や試合は、必ず100mの長さのトラックで行うように
ヴァイオリンの練習や演奏は、必ず330mmの弦長で行う必要があることから、
私はレッスンを始める際には、生徒さん方の楽器に対して毎回まいかい絶対必ず
弦長が330mmか?ということをメジャーで測り駒の位置を調整するとともに
弦長が330mmので魂柱との位置は正しいか?ということを確認していますし、
分数楽器についても、規定されるべき弦長かどうか、毎回厳密に確認しています。
ちなみに
弦長が330mmか?ということをメジャーで測り駒の位置を調整するとともに
弦長が330mmの状態で魂柱との位置は正しいか?ということを確認した
だけではダメで、楽器の響きによっては更にmm単位以下の微調整が必要ですが、
その前提として330mmという弦長すら整っていない状態は論外だと言えます。
他の教室から私のところに移ってきた生徒さん方も、既述の説明に納得されるものの
弦長をレッスンの度に測っていた…という先生は、他所では一人も居ないだけでなく
弦長をレッスンの際に調整してみると、駒と魂柱との位置関係が正しくならない楽器
も少なくありません。
そして
弦長を330mmにした場合に、駒と魂柱との位置関係が正しくならない楽器は
駒それ自体が不適切であったり、指板が下がってしまって弦高(弦から指板までの
距離)が広がり過ぎていて、ネック上げまで必要な状態に陥っている場合が多く、
ネック上げを行って指板の向きを正しくする加工まで必要な場合が殆どです。
(弦長が330mmでないのも問題ですが
弦長を330mmにさえすればいいということでもなく
その状態で魂柱も適切な場所にセッティングされている必要があり
その状態で弦高も適切な状態となっている必要があることは言うまでもありません)
そこで
そうした際には、前田ヴァイオリン工房の前田幸雄氏にメンテナンスをお願いして
いますが、ヴァイオリン関係のお店のページに書いたように、かつてその工房で私が
加工をお願いしている最中に、日本を代表するソリストとそのお弟子さんが駒・魂柱
の交換が済んだ楽器を受け取りに来られて、その場で試奏され、お二人ともがその
あまりにも素晴らしい音の変化に驚嘆したのは、駒・魂柱ですが、ネック上げの加工
も同様に素晴らしいものです。
それは
例えば(月)に修理に出せば(木)か(金)にはネック上げも駒・魂柱作製も済み、
私の楽器の場合、もう40年近くもネックが下がらないほどの加工であるうえに、
駒・魂柱の再作製に加えてネック上げまでした際の音には、生徒さん方は異口同音に
「価格が数倍上の楽器に替えたみたい!」と驚嘆されます。
けれども
よくよく考えてみれば、これもヴァイオリン関係のお店のページに書いたように、
現代最高とも称されるロンドンのJ&Aベアーでも修行され、スターン先生やロスト
ロポーヴィチ氏の楽器のメンテナンスなども行い、鷲見三郎先生のお抱え職人として
も活躍されていたほどの方なのですから、その技術が圧倒的であることは言うまでも
なく、私の周りでは尊敬をこめて「前田さん」とお呼びしています。
一方
その「前田さん」のご子息の前田高寛氏は、かつて石川県金沢市の楽器店でも、期待
される若手製作者として特設ページが開設されていましたが、クレモナから帰国した
直後に発表された楽器は、そのあまりの素晴らしさに某・交響楽団の団員が展示会で
展示品を即座に買い求めた程の見事さで、さらに現在は材料の入手の困難さから制約
を受けているものの楽弓についても同様に素晴らしい製作をされるので、私の教室の
生徒さん方が次々に楽器や弓を買い求め続けていますが、お父様とは区別する意味で
「高寛さん」と呼ばせていただいています。
そして
勿論「前田さん」も楽器製作はされますが、もっぱら楽器修理を行い
一方「高寛さん」も楽器修理はされますが、もっぱら楽器製作を行い
製作>修理の如くに捉える向きもあるようですが、これを住宅の雨漏りに譬えれば
“雨漏りしてる”住宅の修理は、単純に漏れた箇所のみ防水すれば済むのではなく
どこから雨が伝わるのかも踏まえ、総合的に修繕が必要になるとともに
“雨漏りしない”住宅の建築は、単純に漏れないように防水すれば済むのではなく
どこにも雨が伝わらなくなるよう、総合的に建築が必要になることを考えれば
修繕も建築も、それぞれに専門技能が要るように
修理も製作も、それぞれに専門技能が要ることは言うまでもありません。
そうしたなか
楽器修理で既に知る人ぞ知る存在であるのが、お父様の前田幸雄氏であり
楽器製作でだんだん名前が知られているのが、ご子息の前田高寛氏であるものの
ネットで「前田高寛」と検索すると
「楽器修理でだんだん名前が知られるようになってきている、前田高寛の作品なら、
60万円くらいだったと思います。」という、楽器に対する評価もさることながら
「前田さん」と「高寛さん」を混同した何とも頓珍漢な記述が出てきます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14108046359
これは
私のサイトのヴァイオリン関係のお店の前田ヴァイオリン工房の記述において
「高寛さん」が帰国する前は、「前田さん」=前田氏とだけ記していたことに加え
「高寛さん」だけが日本弦楽器製作者協会会員で、それがネット検索されるため、
実際の状況や評価は知らず、只管にネット上の情報だけを搔き集めているが故に
上記のように「前田さん」と「高寛さん」を混同しているのだと言えます。
そして
これこそが、ヴァイオリンが弾ける専門家の如くに装うためにネット上の情報を
収集していることで大変有名な人物が、ネット上の情報だけを搔き集めて書いた
記述で、そのように実際を伴わずネット検索だけで専門家を装おうとしている
道聴塗説ぶりを露呈してしまっている好例だと言えます(笑)
ということで
「前田さん」に、これもまた圧倒的に見事な毛替えをお願いしている最中に、
「高寛さん」が、手前の作業机で丁度弓と楽器を作製されていらしたので、
ヴァイオリンの弦長が330mmであることについて高寛さんと話してみて
私が高寛さんに対して
「ネックの長さが130mmで、ボディストップが195mmであれば
弦長は330mmであるべきものだと承知していますが…」と話すと
勿論、高寛さんの製作楽器は例外なく弦長330mmではあるものの
「新作などでも、ネックとボディストップがその寸法であったとしても、
ところが
丁度、お願いしていた毛替えが終わったところで「前田さん」が話に加わると
「ネックの長さが130mmで、ボディストップが195mmであれば
弦長は330mmです。それ以外は有り得ません。」と断言され、さらに
「ネックの長さが130mmで、ボディストップが195mmでない楽器なら
弦長が330mmになるように、駒や魂柱やネックを作り直して調整します。」と
あまりにも決然と断言されるのには、高寛さんも私も圧倒されてしまいました。
そして
私のところに他所から移って来た生徒さんの楽器で弦長が330mmでない際には、
駒・魂柱の再作製や、なかにはネック上げもお願いするケースも多々ありましたが、
そのいずれもが、弦長330mm以外有り得ないという仕上がりであること以上に、
それはただ単に、弦長330mmに無理やり合わせたのではなく、それによって
生徒さん方が異口同音に「価格が数倍上の楽器に替えたみたい!」と驚嘆される
音が鳴り響く仕上がりになっていることを思う時、前田さんの既述の弦長に対する
確固たる回答の有言実行ぶりにも圧倒されます。
けれども
100m競争の場合は、トラックは地面に固定され、100m=100000mm
なので、1mmの違いにまでこだわって毎回トラックの整備はしないとしても、
ヴァイオリンの場合は、駒は動いてズレ易いうえに、100mよりもはるかに短い
距離で、1mmでも左指が違うと音程が変わってしまうことを追求することから、
330mmの弦長が確保できない際には、ネック上げや駒・魂柱を再作製したり
にもかかわらず
「弦長を正しくするのに、レッスンの度にメジャーで測ったりしない」ですとか
「弦長を正しくするのに、そんなことまでする必要はない」ですとか
「弦長を正しくするのは、年に数回の工房での調整で十分」などとして
330mmが弦長ということを確認もせずにヴァイオリンを練習し演奏するのは
100m競争を長さ100mのトラックで行わない以上に影響が甚大だと言えます。
ですから
330mmの弦長のヴァイオリンで日々の練習と演奏を行うことは
100m競争が長さ100mのトラックで練習し試合が行われる以上に大切であり、
もっとも
既述のようにネック上げや駒・魂柱の再作製により弦長を正しくすることによって
響きが素晴らしくなっても、私のサイトのヴァイオリンの音程の取り方のページで
書いたような響きで音程を確定できる方法を習えなければ無意味です。
けれども
そもそもこのブログはブログの目次のページにも記したように
レッスンを申し込まれる判断材料として
レッスン方針・レッスン形態のページなどとも併せてご覧いただくために
書いているものですが、それすらさえ通じることなく
このブログを眺めて悦に入るだけ…という方も居るようなので(笑)
既述のようなことを書いてみたところで、通じないのかもしれません。
残念です。
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カテゴリ: 指導